九頭龍大神と出雲

 出雲系の斐太神社と違って、関山神社や戸隠神社山岳信仰修験道)を中心に神仏習合の神社としての性格を持っています。かつてはそれぞれ妙高山雲上寺宝蔵院、戸隠山顕光寺と呼ばれていました。戸隠神社は遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来した戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀っています。平安時代末には修験道の道場でした。神仏習合を示すのが「戸隠十三谷三千坊」という呼び方で、比叡山高野山と共に栄えました。江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となりました(関山神社も寛永寺の末寺で、百石の朱印状)。明治になり、神仏分離政策により、戸隠神社、関山神社と改名、現在に至ります。

 妙高や関山神社と比べると戸隠や戸隠神社は昔から人々の関心や興味が高く、そのため多くの文献に記載があります。天照大神(あまてらすおおみかみ)が、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたとき、天手力雄命(たじからをのみこと)が、その岩戸を取って遠くへ投げ飛ばし、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町へ、そしてもう一方の戸が信濃の戸隠へ落ち、その岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになりました(奥社の祭神が天手力雄命)。

 その後、849年学問という修行者が入山し、先住の九頭龍大神(くずりゅうおおかみ、九つの頭と龍の尾をもつ鬼が善神に転じて、水神になる)を山の守護神として岩戸で封じ、戸隠寺を建て、自ら別当となったと伝えられています。龍神の中の頂点に位置するのが九頭龍大神で、それを祭神とするのが箱根神社戸隠神社の九頭龍社です。「戸隠」は実在する地域や山の固有名詞ではなく、神話や伝承からつくられた固有名詞で、語られる仕方に応じて複数の対象を異なる仕方で指示していて、準固有名詞のようなものです。その上、「戸隠」の意味についても複数あって、「(岩)戸に隠れる」、「(岩)戸を投げて隠す」、「九頭龍を(岩)戸で封じ隠す」のいずれをも意味しています。

 平安時代以降、戸隠山は修験の霊場として有名でした。この地には九頭一尾の龍神がいて、その大きさは戸隠山から旧妙高村関山を回り、旧能生町までしっぽが届いたほどでした。そこで、関山神社(新潟県妙高市)には胴中権現、能生白山神社新潟県糸魚川市)には尾先権現が祀られました。九頭龍権現は水神で、信越地方一帯の水を司る神でした。

 そこで九頭龍伝説を辿ってみましょう。善知鳥(うとう)神社(青森市)の周辺に八岐大蛇の姉である持子の九頭龍が潜んでいました。宗像三女神の長女・竹子姫の子の島津大人(しまつうし)が、九頭龍を見つけ、切りかかると、九頭龍は逃げ出し、能生の白山神社周辺に至り、関山神社(妙高市)を通り、戸隠の九頭龍社に逃げ延び、九頭龍は戸隠の宮に留まることになりました。

 各地に九頭龍大神の伝承があり、ある時は悪役、またある時は善神として語られてきました。では、その正体は何なのでしょうか。一つの尾から九つの首を生やした龍(あるいは大蛇)の姿で描かれる九頭龍大神の中でも有名なのが芦ノ湖九頭龍大神奈良時代に、万字ヶ池(まんじがいけ、今の芦ノ湖)には九頭の毒龍が住み、たびたび大波を起こしては里人たちを苦しめていました。757(天平宝字元)年、駒ヶ岳で修行を積み箱根大神の加護をいただいた萬巻(まんがん)上人がついに毒龍退治に挑み、連日祈祷をして法力でもって毒龍を調伏しました。こうして萬巻上人は箱根神社里宮に続き、万字ヶ池のほとりに九頭龍大神を祀りました。荒ぶる化け物を鎮め、神として祀ることは、出雲の八岐大蛇や常陸国の夜刀神の神話に似ています。全国に散らばる九頭龍伝説の中で特に多いのが、この調伏・鎮静型の伝承です。既に戸隠神社の九頭龍社の祭神は封印された九頭龍だと述べました。これらの言い伝えには大和民族対土着民の戦いが透けて見えてきます。

 九頭龍は毒蛇、仏法守護の神、そして様々な姿に変わっていきます。なぜ九頭龍はこのように全国各地に現れ、時として恐れられ、時として崇められたのでしょうか。その理由は、日本古来の信仰と大陸文化との融合の過程にあります。九頭龍は仏教から派生した神でした。仏教の元となったインド神話では猛毒を持つ大蛇とされ、仏教に取り入れられる時に仏法を守護する八大龍王の一柱「和修吉(わしゅきつ)」となりました。

 さて、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は出雲の国で暴れていましたが、酒を飲んでしまい、須佐之男命に退治されました。八岐大蛇の正体は、川の氾濫・盗賊の襲来・出雲の国そのものと諸説あります。九頭竜川の場合と同じように、斐伊川・出雲の国そのものと考えていいでしょう。こうなると、九頭龍と八岐大蛇はダブってしまい、一つに見えてきます。

 この辺で妙高に眼を転じると、海岸を北上してきた出雲文化が内陸に折れて信濃へ向かう途中にあるのが妙高です。居多神社がある直江津から関川水系を遡ると、信濃へ向かう北国街道沿いに出雲町、大己貴社、斐太神社、小出雲など、出雲地名と出雲大神を祭る古社が連なります。1810(文化7)年の「東都道中分間絵図」の高田の城下町を見ると、出雲町が記されています。今の上越市南本町1丁目辺りで、さらに北国街道を南へ進むと、石塚を経て荒井宿に入り、それに続くのが小出雲(村)です。今の妙高市小出雲1、2、3丁目あたり。小出雲は信州飯山道との分岐点でもあり、飯山道を進むと、信越国境の関田峠に至ります。そこから先の旧温井(ぬくい)村にも小出雲があります。先祖は大昔出雲から流れてきて、そこに住み着いたと考えられます。そこから飯山を経て善光寺方面へ向かうと、越後の小出雲から関山を越えて信濃入りした北国街道と交差するのです。

 これまでの話から、戸隠の九頭龍と出雲の八岐大蛇という二つの異なる伝説物語が混じり合い、それらがそのまま日本のあちこちで伝承されてきたことになります。