相馬御風と良寛

 相馬御風は糸魚川に戻り、良寛に没頭することになるのですが、彼の良寛への関心は最後まで続き、その著作は20冊を超えます。また、御風一人だけの雑誌『野を歩む者』の刊行も続けます。

 良寛を考える上で二つのキーワードが「鉢の子」と「手毬」で、良寛の歌にはよく登場します。それを示すのが新美南吉の『良寛物語 手毬と鉢の子』です(青空文庫所収)。この本は太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年に出版されています。手毬は古くからある玩具で、当初は芯に糸を巻いただけのものでしたが、芯にぜんまい綿などを巻き、弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学模様に巻いて作るようになりました。手毬は貞心尼が良寛に歌を贈る際に歌に添えたものでもあります。「鉢の子」は応量器のことで、僧や僧尼が常に所持して飲食を受ける器で、鉢とも呼ばれています。托鉢の時に鉢の子を使って布施を受け取ります。例えば、良寛は「鉢の子にすみれたんぽぽこきまぜて三世の仏にたてまつりてん」と詠んでいますが、御風の歌幅「はちの子に」は次のような歌です。

〈釈文〉良寛さまをおもふ

はちの子におちくりあまた

ひらひためたれりとひとり

ほゝえみにけむ

良寛さまを思ふ 鉢の子に落ち栗あまた拾ひため 足れりと一人微笑みにけむ)

 良寛は常に鉢の子を携帯し、彼の和歌にもよく登場し、手鞠とともに良寛を象徴するものです。歌意は「鉢の子に落ちた栗を沢山拾い集めて、これで十分だと良寛さまは一人微笑んだのだろうなあ」です。御風が一人だけで編んだ雑誌『野を歩む者』でも「良寛和尚遺愛の鉢の子」の写真図版が登場します。また、21世紀に入り建立された燕市の歌碑にも鉢の子が歌に詠まれています。その歌は「鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし 鉢の子あはれ」(鉢の子を道ばたに忘れてきたが、誰もとっていく人はいなかった。その鉢の子のいとしいことよ)。

 戦後の唐木順三良寛』は出色ですが、新潟大学の加藤僖一は良寛の書を研究し、良寛の伝記は御風に尽きると述べています。その御風の良寛研究は大正5年に糸魚川へ退住してから、晩年までの30数年に及びます。実際、御風の後半生は良寛研究と共にありました。糸魚川に帰った御風は西郡久吾著『北越偉人沙門良寛全伝』を読み、良寛に心酔し、それ以降良寛研究に打ち込むことになります。御風が研究を始めた大正時代前半、『北越偉人沙門良寛全伝』の他に10冊ほどの研究書がありました。御風の『大愚良寛』はそれらよりずっとわかりやすい名著です。『大愚良寛』の目的は「私一個の修養」、「私みずからの為め」、「もともと私一個の為めの仕事」としてのものだと表明し、研究書や学術論文ではないと述べていま。御風が良寛を語り、述べる際、それは御風自身の理想の人生を生きた良寛を語っているのです。御風の良寛研究の成果20冊以上の著書に結実しています。

 最後に御風の私流の略歴(『大愚良寛』刊行まで)をまとめておきます。

相馬御風(そうまぎょふう、1883~1950)

・21歳で前田林外、岩野泡鳴らと東京純文社を結成し、機関誌『白百合』を創刊。

・24歳で早稲田大学英文科を卒業。1年先輩が小川未明、同級生が会津八一。

島村抱月の『早稲田文学』で自然主義評論家として活躍。

・25歳で三木露風、野口雨情らと「早稲田詩社」で口語自由詩を目指す。早稲田大学の校歌「都の西北」を作詞。

・大正5年御風34歳、編集責任を負っていた『早稲田文学』が秩序紊乱を理由に当局から発売禁止処分を受ける。

・御風は同年の3月に『還元録』を出版し、郷里糸魚川へ帰る。『還元録』には人間の生活のある糸魚川で生まれ変わり、「凡夫の生活」を目指すとある。

大正12年、童謡「春よ来い」を作詞。昭和5年、一人雑誌『野を歩む者』を創刊。

*御風の良寛研究:糸魚川に帰郷した時、糸魚川中学校には巻町出身で良寛敬慕者の松木徳聚(とくしゅう)校長と、燕市出身で第一高等学校在学中に校友会誌に論文「大愚良寛」を書いた山崎良平教頭がいた。御風はこの二人に会い、良寛に傾倒していった。また、大正3年に『北越偉人 沙門良寛全伝』の著者西郡久吾からも大きな影響を受けた。『早稲田文学大正6年3月号の巻頭を飾ったのが御風の「大愚良寛」。以後、御風の「大愚良寛」は6月号まで4回にわたる連載となり、8月号から12月号までは「良寛遺跡巡り」の連載となる。そして、これら連載に書き下ろしを加えて刊行されたのが『大愚良寛』で、大正7年御風36歳の年に春陽堂から刊行された。『大愚良寛』の内容は良寛の生涯、芸術、思想に及び、越後の一部の人しか知らなかった良寛を全国的に有名にした。