カチューシャの唄

 正岡子規の「写実」は何とかわかっても、写実主義から自然主義への移行となると私にはわからなくなる。科学的な自然主義は当たり前に思えても、文学的な自然主義を文学評論として展開することなど、魑魅魍魎の世界の出来事にしか思えないのである。文学的な自然主義は19世紀後半にフランスで始まった文学運動で、エミール・ゾラが体系的に展開した。自然の事実を観察し、美化することを否定し、ダーウィンの進化論やコントの実証主義などをその根拠にして、人間をそのまま描き見出そうとした。ゾラの作品は、日本の1900年代の文学界に大きな影響を与え、坪内逍遥、島村抱月らの早稲田派が生まれることになった。島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋の『蒲団』(1907年)、『田舎教師』(1909年)などが自然主義文学の支柱となった。『早稲田文学』を本拠に評論活動を行った島村抱月や相馬御風も自然主義文学の可能性を広げようとした。

 抱月は1907(明治40)年「今の文壇と新自由主義」で早稲田派の方向を定め、御風はそれに歩調を合わせ、言文一致の口語自由詩を1908年より書き始める。一方、彼は同じ年に新潮社から『御風詩集』を出版するが、所収されているのは文語詩だけだった。彼は次第にロシア文学に関心をもち、1912(大正1)年にはトルストイの人道主義に傾倒し、『戦争と平和』など多数のロシア文学作品の翻訳本を出版する。そして、その一つが『復活』。

 

カチューシャかわいや わかれのつらさ

せめて淡雪 とけぬ間と

神に願いを(ララ)かけましょうか

 

カチューシャかわいや わかれのつらさ

今宵ひと夜に 降る雪の

あすは野山の(ララ)路かくせ

 

カチューシャかわいや わかれのつらさ

せめて又逢う それまでは

同じ姿で(ララ)いてたもれ

 

カチューシャかわいや わかれのつらさ

つらいわかれの 涙のひまに

風は野を吹く(ララ)日はくれる

 

カチューシャかわいや わかれのつらさ

ひろい野原を とぼとぼと

独り出て行く(ララ)あすの旅

 

 上の歌詞は松井須磨子が歌う「カチューシャの唄」。1915(大正4)年4月に東洋蓄音機(オリエント・レコード)のスタジオで録音され、日本の流行歌(歌謡曲)の第1号となった。「カチューシャの唄」の作詞は一番が島村抱月、二番以降は相馬御風、作曲は中山晋平で、1914(大正3)年3月に帝国劇場での第3回芸術座公演『復活』五幕のなかの劇中歌で、第1幕第2場でカチューシャが軽く手拍子を入れて唄ったもの。中山晋平の作曲は難航したようで、舞台稽古の3日前に、歌詞のなかに「ララ」と云う囃子言葉を入れることで、よくやく曲ができた。

 『復活』はトルストイの代表作。1899(明治32)年に雑誌への連載で発表され、若い貴族とかつて恋人だった女の、贖罪と魂の救済を描き、それを通じて社会の偽善を告発した作品である(新潮社の佐藤義亮は「出版おもひ出話」で、1914(大正3)年に『復活』の舞台稽古が始まったが、抱月の代わりに御風が佐藤を訪ね、千円程借金したことを語っている)。「カチューシャの唄」への観客の反応は初日からとてもよく、幕間には廊下の壁の歌詞を見ようと観客が押し寄せ、歌詞をノートにメモした。「カチューシャの唄」はたちまち巷に広まり、2~3か月後にはこの唄をくちずさむ人が増えた。主として当時の旧制高校生や大学生の間に広まり、翌年に「カチューシャの唄」はレコードとなった。

 翌年の1915(大正4)年何度か議論を交わした大杉栄がダーウィンの『種の起原』を翻訳し、出版される。そして、その翌年、1916(大正5)年に御風は『還元録』を書き、故郷の糸魚川に本名の昌治として帰るのである。一方、それとは対照的に、御風の先輩吉江喬松が同年にフランスへ、後輩の片上伸(天弦)が1915(大正4)にロシアに留学していた。