『御風詩集』は1908(明治41)年6月に新潮社から出版された文語詩だけからなる相馬御風の詩集です。その前年に島村抱月が口語詩を提唱し、それに呼応して御風は明治41年に「自ら欺ける詩界」、「詩界の根本的革新」の詩論を『早稲田文学』に発表しています。詩は口語で、旧来の詩調を廃し、自由な行と連をもつべしという主張は、『御風詩集』に所収された詩はそれらのいずれにも反しています。また、御風が蒲原有明の象徴詩を上記の詩論で否定し、抱月の自然主義を主張するのも私には何か不自然で、どこか腑に落ちないのです。
そこで、1908年の『早稲田文学』に掲載された御風の口語詩を引用してみましょう。
霜が置いた。
始めて霜が置いた。
朝貌は真黒に打れた。
コスモスは黄色く萎だれた。
小さい蕾を持った月見草も、
花盛りの菊も、
背の高い青桐も、
皆じつと息を秘めたやうに
ブルブル震えて居る。
霜は解けて真黒な土に沁み入る
*「朝貌」は「あさがお」と読み、キキョウと思われる。「月見草」もマツヨイグサ?。
この詩と比較するために『御風詩集』の写生風の「町の角」を引用しよう。
蒼ざめし人二人
別れたり右左
夕ぐれの町の角。
右なるは程近き
教会の石段を
のぼりつつかへり見ぬ。
左へと行きし人
その刹那、急ぎ足
縄暖簾つとくぐる。
空くらく風あらく
ちらちらと雪ふりて
日はまたまた暮れにけり
日本語が変化し、現在の私たちには上のいずれの詩が口語詩で、いずれが文語詩かよくわからなくなっています。明治から大正にかけての口語も文語も共に今の私たちには今の日本語ではありません。その違いが詩にとってどれだけ重要かは相対的なものでしかないというのが常識だとすれば、明治40年代からの御風の詩論は当時の自然主義の流行に合わせたもので、大正に入っての荻原朔太郎や高村光太郎の詩が待たれるのです。故郷の糸魚川に戻った御風が、彼らの詩についてどのように感じたのか、特に親交のあった高村高太郎の詩について御風は何をどのように感じたか知りたいものです。