2023年4月に妙高高原北小学校と妙高高原南小学校とが統合され、新たに妙高高原小学校が誕生し、新たな教育目標は「なかよく かしこく たくましく」となりました。この教育目標を見て、思い出したのが私の通った小学校の教育目標(「よい子 つよい子 できる子」)です。当時は教育目標とは呼んでいなかったと思いますが、見比べると、違うと思う人は少なく、似ているというより、同じことの別の言い回しだと思う人が多いのではないでしょうか。「教育目標」という用語も正確に何を意味していて、校訓とどのように異なるかは定かではありませんが、似たり寄ったりと考えておいてもあながち間違ってはいないと思います。
現在の妙高市立新井小学校は私が入学した頃は、「新井町立新井小学校」と呼ばれていました。現在の教育目標は私が在学中と変わらず、「よい子 つよい子 できる子」。校歌も変わらず、作詞は巽聖歌(「たきび」の作詞者)、作曲は信時潔(「海行かば」の作曲者)。でも、今の在校児童数は440名程で、私がいた頃の約1800名とは随分違います。
さて、高野辰之(1876-1947)作詞の「故郷」、「朧月夜」の発表は今から111年前。高野辰之には清水謹冶という仲の良い従兄弟がいました。高野辰之の父仲右衛門の姉の子が清水謹冶で、二人が暮らしていた永田村と外様村は15kmほど離れていましたが、とても仲が良く、辰之は永田小学校へ、謹冶は外様小学校へ入学、卒業し、1980(明治23)年に二人とも飯山にあった下水内高等小学校へ入学しました。家から学校までの道は辰之が直線距離で約8km、謹冶は約5kmで、冬場は真宗寺へ下宿しました。妙高市に接する飯山市、さらにその横の中野市が高野の故郷で、私の故郷妙高とは隣で、とても近いことがわかります。高野の作詩した「故郷(ふるさと)」(1914)は文部省唱歌で、歌詞は文語の定型詩です。北信地方の風景が表現され、それを懐かしく思いながら、成功して故郷に戻り、両親に恩返しをしたいという内容で、戦後生まれの私たちは大した抵抗もなく、何かにつけ歌ってきました。その歌詞を再度確認しておきましょう。
兎(うさぎ)追(お)いし彼(か)の山(やま)
小鮒(こぶな)釣(つ)りし彼(か)の川(かは)
夢(ゆめ)は今(いま)も巡(めぐ)りて
忘(わす)れ難(がた)き故郷(ふるさと)
如何(いか)にいます父母(ちちはは)
恙無(つつがな)しや友(とも)がき
雨(あめ)に風(かぜ)につけても
思(おも)ひ出(い)づる故郷(ふるさと)
志(こころざし)を果(は)たして
いつの日(ひ)にか歸(かえ)らん
山(やま)は青(あお)き故郷(ふるさと)
水(みず)は清(きよ)き故郷(ふるさと)
(子供の頃の野山の風景を遠い地から懐かしみ、生まれ故郷から離れて仕事に励む人の心情を歌っている。高野の故郷は、里山の光景が広がり、「かの山」も「かの川」もあった。生前の高野も国文学研究のため26歳で師範学校教員を辞し、上京して研究生活に入り、山々では冬の食料として野兎が、川では小鮒が釣られていた。そんな山や川を夢に思い、育ててくれた父や母はどうしておいでか、友人たちは平穏に暮らしているだろうか。風雨のたびに、故郷が思い出される。夢を叶え、成就できたら、いつの日にか、山青く水清らかな故郷へ帰ろう。)
さすが文部省唱歌で、「よい子、つよい子、できる子」によく似て、優等生の歌詞になっています。今の若者たちはそうではないのでしょうが、私を含めた古い世代は妙にこの歌詞に共感し、何の抵抗もなしに故郷を懐かしむのではないでしょうか。実際、子供の私は兎を追ったことも、鮒を釣ったこともありませんでした。また、故郷を離れずに、故郷に住み続けてきた人もたくさんいます。それでも誰もが歌うのは文部省唱歌だったせいでしょうか。
糸魚川市も妙高市の隣にあり、子供の頃は夏休みに糸魚川にある親戚の寺に何度も泊まりに行っていました。そこで相馬御風のことを初めて聞いたのですが、彼の仕事、作品などをしっかり知ることになるのは70歳近くになってからです。相馬御風の1年先輩が小川未明で、未明はやはり隣の上越市の出身。二人は同じ高田中学(現県立高田高校)を出て、同じ早稲田大学に入学し、同じように文学者を目指していました。二人の関係や戦中、戦後の二人の経緯は以前詳しく論じたので、ここでは御風の「春よ来い」(1923)を「故郷」と対比的に見てみましょう。小川未明も相馬御風も大学時代は口語の自由詩を目指していました。でも、御風は『還元録』(1916)を書き、東京での生活を棄て、糸魚川に帰ります。糸魚川に帰ってから書かれたのが「春よ来い」で、見事な口語の童謡になっています。その歌詞を挙げておきましょう。
春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている
この歌詞の中の「じょじょ」は草履のことで、「みいちゃん」は御風の長女文子(あやこ)。相馬御風と妻テルの結婚は1907(明治40)年12月22日、御風24歳、テル18歳でした。この時、御風は母校早稲田大学の創立25周年記念の校歌「都の西北」を作詞し、テルは日本女子大学英文科の学生でした。テルの父は藤田茂吉で、慶應義塾を出て、新聞記者となり、日本最初の衆議院選挙に当選、院内総務も務めました。テルと見合いをした御風は彼女の美しさに一目惚れ。結婚式は質素でしたが、後に早稲田大学総長、文部大臣となった高田早苗が保証人となりました。テルは東京生まれの東京育ちでしたから、『還元録』以降の糸魚川に戻ってからの生活は色々大変だったと想像できます。
1923年に雑誌『金の鳥』に発表されたのが童謡の「春よ来い」。彼は5男1女に恵まれますが、長男、4男、5男が子供のうちに亡くなり、5番目で、初めての女の子が文子でした。相馬文子(1921年-2009年)は日本近代文学研究者。彼女は糸魚川で生まれます。彼女は1941年に母と同じ日本女子大学の英文科ではなく、国文科を卒業し、東京帝大史料編纂所に勤め、戦後は日本女子大学付属図書館司書として長く勤めました。
「故郷」も「春よ来い」も妙高市のすぐ近くで生まれた文学者によって作詩され、多くの日本人に歌い継がれてきた歌です。私たちの「故郷」の原型を作ってきた二つだと言ってもいいでしょう。でも、二つには文部省唱歌と童謡の違いがあり、文語と口語に違いがあり、官製と私製の違い等々があります。それら違いを超えて、二つの歌の歌いやすいメロディーと歌詞は私たちの心の故郷を代表してきました。
二つの歌は何処が、何が共通しているか、どの点で異なっているか、じっくり考えるのはそれらに親しんできた老人たちの役目なのかも知れません。それによって、日本人の「故郷」像についての古い世代の考えが少しは垣間見えるのではないでしょうか。