我が故郷(2-1)

 「我が故郷(1)」では高野辰之と相馬御風を取り上げ、飯山、糸魚川が妙高に隣接し、我が故郷の一部になっていたことを述べました。私が生まれたのは旧新井町の小出雲、良寛が生まれたのが出雲崎で、地名から共に「出雲国」に係わりがあるようです。また、我が家は北国街道沿いにあったのですが、一茶の生まれた柏原はその北国街道の宿場町で、小出雲と柏原は北国街道でつながっていました。そんな関係を結び合わせると、良寛と一茶が明治生まれの高野辰之と相馬御風より前の、江戸後期の我が故郷に連なる人だったことがわかります。二人とも互いにライバルなどとは思わなかったでしょうが、私には故郷の好対照の二人に思えてならないのです。

 確かに、越前から越後にかけて「出雲」の地名が今でも数多く残っています。「出雲町」だけでなく「出雲神社」も多く、出雲崎は「出雲の大国主命の来臨と出雲との交流にちなむ」とか、「出雲臣の一族が往来した海辺の崎の地」など、いずれも出雲との縁が指摘されています。「遠い昔に出雲の神が慕いきませし雲の浦」という出雲崎小唄は、そんな神代の記憶を受け継いでいます。「出雲国」という地名の由来は数多くありますが、有名なのは、『出雲国風土記』に記載された「八雲立つ国」説で、雲がわき立つ様子から命名されたとされます。本居宣長もこの説を支持していました。

 「出雲」という地名を探すと、島根県の出雲市の他に50か所ほど見つかります。新潟県にも妙高市小出雲、三島郡出雲崎町があります。意外なのは京都で、10か所も出雲が登場します。特に、上賀茂神社付近には出雲路神楽町、出雲路俵町などの町名があり、なぜ京都に出雲の地名が残されているのか、古代史の謎の一つです。

 さて、小出雲に戻り、新井市ができるまでの経緯を振り返っておきましょう。

1890(明治23)年 中頸城郡大崎村の大字新井を分離し、新井村が発足。

1892(明治25)年 町制施行し、新井町となる。

1901(明治34)年 新井町は中頸城郡小出雲村、大崎村と合併。

1907(明治40)年 新井町は中頸城郡参賀村と合併。

1954(昭和29)年 中頸城郡矢代村、斐太村、鳥坂村、水上村、泉村、上郷村、平丸村、和田村(一部)と合併し、新井市となる。

 小出雲村は新井町の隣にあり、新井町に吸収合併され、その後周りの村々が同じように合併されていったことがわかります。小出雲村の賀茂神社の創建の詳細は不明ですが、社号から上記の京都賀茂神社の分霊が勧請されたと思われます。

 

 さて、糸魚川に戻った相馬御風は良寛研究に没頭し、彼の良寛への関心は最後まで続き、その著作は20冊を超えます。良寛を考える上で二つのキーワードが「鉢の子」と「手毬」で、良寛の歌にはよく登場します。それを示すのが新美南吉の『良寛物語 手毬と鉢の子』です(青空文庫所収)。この本は太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年に出版されています。手毬は古くからある玩具で、当初は芯に糸を巻いただけのものでしたが、芯にぜんまい綿などを巻き、弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学模様に巻いて作るようになりました。手毬は貞心尼が良寛に歌を贈る際に歌に添えたものでもあります。「鉢の子」は応量器のことで、僧や僧尼が常に所持して飲食を受ける器で、鉢とも呼ばれています。托鉢の時に鉢の子を使って布施を受け取ります。例えば、良寛は「鉢の子にすみれたんぽぽこきまぜて三世の仏にたてまつりてん」と詠んでいます。

 戦後の唐木順三『良寛』は出色ですが、新潟大学の加藤僖一は良寛の書を研究し、良寛の伝記は御風に尽きると述べています。御風は西郡久吾著『北越偉人沙門良寛全伝』を読み、良寛に心酔し、『大愚良寛』を著し、「私一個の修養」、「私みずからの為め」、「もともと私一個の為めの仕事」としてのものだとし、研究書や論文ではないと述べています。

 良寛は1758年越後出雲崎の庄屋の長男に生まれ、18歳で出家、備中玉島の円通寺で参禅修行し、印可を受けました。全国行脚の後、故郷の地で草庵に身を寄せ、自適の生活を送ります。和歌、漢詩、書に優れた作品を多く残しています。良寛は行動も自由自在、子供たちとすべてを忘れて遊び続ける無邪気さをもっていましたが、厳しい禅の修行をした禅僧でもありました。また、良寛は越後に流された親鸞が教祖の浄土真宗にも深い共感と理解を示していて、次の歌に見事に表現されています。

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ

草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

我が後を 助け給へと 頼む身は 本の誓ひの 姿なりけり

(私が頼むこと自体が弥陀の誓いによって成就することから、親鸞の「如来より賜りたる信心」のこと)

 融通無碍で、自由な良寛は般若湯(酒)も嗜み、乞食で山を下りる時は懐に手まりを入れて日暮れまで子供たちと遊び、まり突きやかくれんぼをしていました。

この里に 手まりつきつつ 子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし

 良寛の歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は良寛に弟子なりたいと願い出ます。良寛70才、貞心尼30才の時で、彼女が会ってくれるよう願い出ても、良寛は会おうとしなかったので、ついに貞心尼は草庵に良寛を訪ねます。良寛は不在で、貞心尼は持参した手毬と歌を庵に残して帰ります。

これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ(貞心尼)

良寛は貞心尼に興味をもち、歌を返したのです。

つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめてまたはじまるを(良寛)

初めて良寛に会った時の喜びを貞心尼は素直に歌にしています。

きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ(貞心尼)

良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの数年間、お互いを慈しみ、敬愛する恋愛を続けます。村人は、二人の仲を噂し、心配しますが、二人は一向に意に介しませんでした。二人は度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠み、そして、良寛は貞心尼に看取られて亡くなりました。

形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉(良寛)

良寛は、貞心尼の愛に心からの感謝をこめた辞世の句を贈ります。

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ(良寛)

 良寛の死後、貞心尼は彼の旅した跡を追い、彼の遺した歌を集め『蓮(はちす)の露』という歌集を自ら編んでいます。

 

 江戸時代の三大俳人は松尾芭蕉、与謝蕪村、それに小林一茶。芭蕉より100年近く遅れて蕪村、その蕪村より50年遅れの一茶。また、良寛と一茶は同世代人。芭蕉が生涯に残した俳句は約1,000句、蕪村は約3,000句、一茶はなんと約20,000句を残しています。それに対して、良寛の俳句は100句余りに過ぎません。

 一茶は国民詩人であり、もっとも親しまれている俳人です。芭蕉は宇宙の「造化」の構造を、蕪村は宇宙と人間の関係の構造を表したのに対して、一茶には存在も非在もなく、ひたすら愛をうたい、怒りを表現しました。一茶は人とその生活世界にこだわりました。故郷は「古郷やよるも障るも茨の花」のように人を刺す茨の棘であり、また「死支度致せ致せと桜哉」の桜は、死支度を急がせる花でしかありません。

 良寛の俳句は100句余りと述べましたが、彼は漢詩700余首、和歌1,400首を詠んでいます。良寛は日本の漢詩人の中では最高峰に位置し、長歌は柿本人麻呂に匹敵すると評されてきました。でも、俳句は句数の少ないせいもあり、その評価も様々です。

 宇宙創造の基本の力を芭蕉は「造化」と呼びました。それは神のようなもので、芭蕉は出雲崎で、世界の創造主を見て、「あら海」、「佐渡」、「あまの河」と表現しました。子規はこのような芭蕉の俳句を「雄渾豪壮」と形容しています。蕪村もまた「雄麗艶美」の俳句を完成した俳人で、非在を通して存在を捉えました。この典型例が「待人の足音遠き落ち葉かな」。