落葉を巡って

 まずはレオ・バスカーリア(Leo Buscaglia)の絵本『葉っぱのフレディ-いのちの歌-』)。主人公の葉っぱのフレディは春に大きな楓の木の太い枝に生まれた五つの葉っぱのうちの一枚。フレディには仲間の葉っぱがたくさんいる。葉っぱは人間同様、皆違っていて、個性をもっている。フレディの親友はダニエル。ダニエルはいちばん大きく、考えることが大好きな哲学者。ダニエルはフレディに色んなことを教える。フレディは木が倒れないのは地面の下に根を張っているため、月や太陽や星が秩序のある運動をしていること、季節がめぐること等々を学んだ。

 フレディは自分が葉っぱに生まれたことを喜ぶ。季節は移り、寒い霜の季節が訪れる。緑色だった葉っぱは紅葉する。フレディも赤と青と金色の三色に変わる。同じ木の葉っぱでも、皆違う色に変化する。訝るフレディに、ダニエルは生まれたときは同じ色でも、皆違う経験をするから、違う色に変化することを教える。そして、冬の到来とともに、葉っぱたちは冷たい風に吹き飛ばされ、次々と落葉。ダニエルはみんなが今の木から「引っ越す」ことをフレディに教える。やがてフレディとダニエルだけが木に残る。フレディはダニエルが言っていた「引っ越す」ということが「死ぬ」ことだと気づく。「死」を恐れるフレディに対して、ダニエルは、「無常」を説き、死も逃れえぬ変化の一つであることを教える。「ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」と尋ねるフレディに、ダニエルは深く頷き、やがて夕暮れに枝から離れていく。残ったフレディは、雪の朝、風にのって枝を離れ、しばらく空中を舞ったあと、地面に舞い降りていく。初めて木全体の姿を目にしたフレディはダニエルが言っていた「生命」の永遠を思い出す。そして静かに目を閉じ、眠りに入っていく。そして、季節は巡り、また春がやってくる。

 さて、このフレディの話を日本の成人バージョンに変えるとどうなるだろうか。これを越後や信濃の禅僧、文人たちについて考えてみよう。死期のせまった出雲崎良寛に対し、恋人貞心尼が「生死など超越したつもりなのに、いざ別れとなると悲しい」という歌を送ると、良寛は次のような句を返した。

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ

散っていくもみじは、表も裏もすべてさらけ出し、隠すことなく散っていく。良寛と貞心尼は短い4年間の付き合いだったが、正直に包み隠すことなく過ごしたという辞世の句と思われる。そして、良寛は最愛の貞心尼に看取られ、74歳で亡くなる。その良寛には辞世の歌も残されている。

 形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉

 また、桜の季節に詠んだ、

 散る桜 残る桜も 散る桜

良寛の句と言われているが、糸魚川の相馬御風が記した「地蔵堂町字下町、小川五平氏(当主長八)ヨリ出デシ反古中ニアリシ」という文書に、「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉(これなきや)と人問しに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問しに、散桜残る桜もちる桜」とあることが理由のようである。だが、この句を良寛の辞世だとする文書はあるが、良寛の最期を看取った人の誰もがこの句のことを記していないことから、「散る桜残る桜も散る桜」という古句が既にあり、その句がいかにも良寛の辞世の句としてふさわしいものなので、良寛の逸話に紛れ込んだのではないか、と考えられている。

 江戸時代の三大俳人松尾芭蕉与謝蕪村、それに小林一茶芭蕉より100年近く遅れて蕪村、その蕪村より50年遅れの一茶。その一茶と良寛は同世代人。芭蕉が生涯に残した俳句は約1,000句、蕪村は約3,000句、一茶はなんと約20,000句を残している。それに対して、良寛の俳句は100句余りに過ぎない。

 芭蕉は宇宙の「造化」の仕組みを、蕪村は宇宙と人間の関係の仕組みを表現したのに対して、一茶はひたすら愛を、怒りを詠った。一茶の主題は人とその生活世界だった。故郷は「古郷や よるも障るも 茨の花」のように人を刺す茨の棘であり、また「死支度 致せ致せと 桜哉」の桜は、死支度を急がせる花でしかなかった。

 良寛の俳句は100句余りと述べたが、彼は漢詩700余首、和歌1,400首を詠んでいる。良寛は日本の漢詩人の中では最高峰に位置し、和歌も柿本人麻呂に匹敵すると評されてきた。だが、俳句は句数の少ないせいもあり、その評価も様々である。

 さて、良寛と一茶の類似句について考えてみよう。清貧な良寛の句と貧寒な一茶の句に類似点が多いことはよく知られている。一茶は、良寛より5年遅れて誕生し、4年早く他界していて、二人は65年間も同時代人として生きた。しかも、良寛は越後の国上山などに、一茶は信濃の柏原に、国を隣にして生活していた。二人が互いに何らかの影響を受けたと考えるべきだろう。

 焚くほどは 風が持てくる 落ち葉かな(良寛

 焚くほどは 風がくれたる 落ち葉かな(一茶)

(「もて来る」は動詞「もてく(持て来)」の連体形、「くれたる」は動詞「くる(呉る)」に助動詞「たり」がついて、意味は「与える」。)

 上の一茶の句は、『七番日記』にある(『六番日記』を見つけたのが有恒学舎で英語教師をしていた会津八一)。良寛の句は58歳の時と言われ、一茶の句は良寛の句に4年先行する。これら二句について、御風は一茶の句の方がより主観的で、自然が意図的に振る舞う様を描いていて、より客観的な良寛の自然観とは違っているとまとめたのだが、私には「持てくる」と「くれたる」とが共に生活に溶け込んだ自然の振舞いに思え、その方が御風のような主観と客観の違いより強いのである。それよりは、越後と信濃の人々が共有する自然との関わり、生活様式、さらには自然観、人間観、社会観が同じように表現されていて、むしろ二人の共通点が強く目立つのである。より平明な「焚くほどは風が運ぶや落ち葉かな」であっても、やはり同じ自然観を表していると思えるのである。蕪村の句「釣鐘に止まりて眠る胡蝶かな」に対して、子規は「釣鐘に止まりて光る蛍かな」と詠んでいる。これを誰も子規の盗作とは言わないのと同じように、一茶の句も良寛の句も、見事に世界の同じ一片、一面を見事に描いている。

 フレディにしろ、良寛や一茶にしろ、落葉と人生、自然が重なり合い、人の死と結びつく構図は共通していて、それが秋の深まりと共に私たちの生活の中に静かに漂い出すのである。