えちご妙高にかかわる俳人たちを想う(4)

<えちごの良寛

 越後には詩人が多い。実際、後述する会津八一も相馬御風も、そして西脇順三郎も越後生まれの詩人。越後出身だが、その文学が 越後的、越後風などということはない。彼らが求めた詩や歌の精神は人間の生存や自然に根ざした普遍的なもので、えちご妙高など優に超越していた。だから、「えちご」は彼らの文学の契機であっても、目的ではなかった。

 良寛は 1758 年越後出雲崎の庄屋の長男に生まれ、18 歳で出家、備中玉島の円通寺で参禅修行し、印可を受けた。全国行脚の後、故郷の地で草庵に身を寄せ、自適の生活を送る。 和歌、漢詩、書に優れた作品を残す。「本来無一物」という禅の教えに徹したところに、良寛の無垢で清々しい境涯が生まれた。良寛は行動も自由自在、子供たちとすべてを忘れて遊び続ける無邪気さをもっていた。良寛は厳しい禅の修行をした禅僧でもある一方、浄土真宗にも深い共感と理解を示している。

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ

草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 融通無碍で、自由な良寛般若湯(酒)も嗜み、山を下りる時は懐に手まりを入れて日暮れまで子供たちと遊び、まり突きやかくれんぼをしていた。

この里に 手まりつきつつ 子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし

 良寛の歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛に弟子なりたいと願い出る。良寛 70 才、貞心尼 30 才の時である。貞心尼が会ってくれるよう願い出ても、歌詠みの尼僧である貞心尼に会おうとしなかったので、ついに貞心尼は草庵に良寛を訪ねる。良寛は不在だったが、貞心尼は持参した手まりと歌を庵に残して帰る。

これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ(貞心尼)

 良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの数年間、お互いを慈しみ敬愛する恋愛を続ける。

天が下に みつる玉より 黄金より 春のはじめの 君がおとづれ

村人は二人の仲を噂し心配するが、二人は一向に意に介さなかった。二人は、度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠み、そして、良寛は貞心尼に看取られて亡くなった。

形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉

良寛は、貞心尼の愛に心からの感謝をこめた辞世の句を贈る。

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ

良寛の死後、貞心尼は良寛の旅した跡を追い、良寛の遺した歌を集め『蓮(はちす)の露』 という良寛の歌集を自ら編んだ。

 良寛は一茶より7年早く生まれて6年後に亡くなっている。二人はこの世に65年間も一緒に住んでいたことになる。良寛は諸国修行ののち、38歳で越後に帰る。翌年から国上五合庵に18年住む。更に乙子神社境内の草庵に約10年、そして、三島郡島崎の木村元右衛門の庵に住み、74歳で亡くなる。一方、一茶が柏原に帰ったのは50歳で、良寛が五合庵時代の56歳の頃。一茶が亡くなったのは文政10年、65歳。その15年の間、二人は北信濃と越後に隣接して住んでいた。

焚くほどは 風がもて来る 落葉かな  

この句が良寛の句として広く伝えられていた。相馬御風によれば、一茶の『七番日記』には焚くほどは 風がくれたる 落葉かなの一句があり、この句が原形とされている。

 良寛といえば、やはり歌と詩、そして書。良寛作の句は百句程度。芭蕉が俳聖なら、一茶は俳人で、共に俳句の専門家、それに対して良寛はアマチュアの優れた愛好家。

 良寛が人を惹きつけるのは、彼が何者でも無いこと。彼は自らの欠点を自由に認め、愚かに生きることを実践したことであり、それは親鸞の説く教えにも通じている。