散る桜 残る桜も 散る桜

 この句が良寛の辞世の句と言われ、「今美しく咲いている桜でもいつかは必ず散る」、「散る桜も残る桜もやがては等しく死を迎える運命にある」などと注釈されると、つい納得してしまいます。「私は命を終えていくが、残されたあなたたちも命を終えていく「諸行無常」の定め」などとなれば、なおさらです。さすがに、「咲いたからには散るのは覚悟」と言われると、賛成する人は多くないでしょう。「桜花 散るも残るも 散る桜」は論理的に違和感がなく、「散る命 残る命も 散る命」は良寛の句と似ているが、「白桜 赤い桜も 白桜」となると支離滅裂になる、と考えたA君は普通の注釈に不満を持ちました。

 最初の「散る桜」と次の「残る桜」の「散る、残る」は実際の桜の花の観察される光景を表現し、最後の「散る桜」は桜の本性、性質としての「散る」を表現していて、同じ動詞「散る」でもまるで異なっていると考えないと、上記の見事な注釈は成り立たないというのがA君の意見です。「眼前で散る花、枝に残って咲く花、いずれの花もついには散る運命にある」が成り立つには、「散る」の二様の使い方の違いにあるというのがA君の考えです。その真偽は読者に任せ、良寛を巡る話をまとめておきましょう。

 

 越後には詩人が多く、優れた詩歌が生まれてきた。実際、会津八一も相馬御風も、そして西脇順三郎も越後生まれの詩人です。越後出身だからと言って、その文学が越後的、越後風などと言うつもりはありません。彼らが求めた詩や歌の精神は人間の生存や自然の姿に根ざした普遍的なものでした。「えちご」は彼らの文学の契機の一つに過ぎません。

 良寛は1758年越後出雲崎の庄屋の長男に生まれ、18歳で出家、備中玉島の円通寺で参禅修行し、印可を受けました。全国行脚の後、故郷の地で草庵に身を寄せ、自適の生活を送り、和歌、漢詩、書に優れた作品を残します。「本来無一物」という禅の教えに徹したところに、良寛の無垢で清々しい境涯が生まれました。彼は行動も自由自在、子供たちと遊び続ける無邪気さをもっていました。良寛は厳しい禅の修行をした禅僧ですが、その一方で浄土教に深い共感と理解を示しています。

 

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ

草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

 良寛の辞世の句は二つ挙げられています。

 

散る桜 残る桜も 散る桜

うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

芭蕉の友人であった谷木因(たにぼくいん)に「裏ちりつ表を散りつ紅葉かな」という句があり、良寛の「うらを見せ……」の句はこの木因の句を踏まえて詠まれたもの)

 

 融通無碍で、自由な良寛は酒も嗜み、乞食で山を下りる時は懐に手マリを入れて日暮れまで子供たちと遊び、マリ突きやかくれんぼをしていました。良寛の歌と書を知り、その人柄に感銘を受けた貞心尼は良寛に弟子になりたいと願い出ます。何と、良寛70才、貞心尼30才の時です。貞心尼が会ってくれるよう願い出ても、彼は会おうとしなかったので、ついに貞心尼は草庵に彼を訪ねます。良寛は不在で、貞心尼は持参した手マリと歌を庵に残して帰ります。

 

これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ(貞心尼)

 

 良寛は貞心尼に次の歌を返したのです。

 

つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめてまたはじまるを(良寛

 

 良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの数年間、お互いを慈しみ、敬愛する恋愛を続けます。村人は、二人の仲を噂し、心配しますが、二人は一向に意に介しませんでした。二人は度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠み、そして、良寛は貞心尼に看取られて亡くなりました。

 

形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉(良寛

 

 良寛は、貞心尼の愛に心からの感謝をこめた辞世の句を贈ります。

 

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ(良寛

 

 良寛の死後、貞心尼は彼の旅した跡を追い、彼の遺した歌を集め『蓮(はちす)の露』という歌集を自ら編みました。

 

 やはり越後出身の相馬御風が『一茶と良寛芭蕉』(春秋社、1925)を著しています。その中に、一茶と良寛の次の俳句の比較があります。

 

焚くほどは風がもて来る落葉かな(良寛

焚くほどは風がくれたる落葉かな(一茶)

(「もて来る」は動詞「もてく(持て来)」の連体形、「くれたる」は動詞「くる(呉る)」に助動詞「たり」がついて、意味は「与える」。)

 

 清貧な良寛の句と貧寒な一茶の句とに類似点が多いことはよく知られています。一茶は良寛より5年遅れて誕生し、4年早く他界していて、二人は65年間も同時代人として生きました。しかも、良寛は越後の国上山などに、一茶は信濃の柏原に、国を隣にして生活していたのです。二人が互いに何らかの影響を受けたと考えるべきでしょう。

 上の一茶の句は、『七番日記』にあります。良寛の句は58歳の時と言われ、一茶の俳句は良寛の俳句に4年先行します。この辺の事情は既に御風が述べていて、それを引用しましょう。

「二句に於ける「もて來る」と「くれたる」の相異についてである。今後者が當時ひろく人口に膾炙した結果良寛の耳にも入り、それが又良寛の口から多くの人々の耳に傳はつたのが事實であつたとして見ても、「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と「焚くほどは風がもて來る落葉かな」と全然同一句として見ることは出來ない。「くれたる」が良寛によつて幾度となく口ずさまれてゐるうちに、いつしか「もて來る」と變つてしまつたのだとして考へると、その轉化にはかなり深い意味がある。ちよつと考へると大した相異はないやうであるが、深く味つて見ると僅にその一つの言葉の相異によつて二つの句全體がそれぞれ全く獨立して存在し得るほどの結果を示してゐるとさへ考へ得る。「くれたる」にはなほ自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相對的である。しかし「もて來る」には自然が擴充してゐる。主我的なはからひがない。自然は自然である。その恩惠にあづかるのはこちらからである。それに感謝するのもこちらの心からである。そんな風に見て來ると、やはり、一茶は一茶、良寛良寛だとうな づかれる。」

(『一茶と良寛芭蕉』緒言(1947、初版1925春秋社))

 一茶の句の方がより主観的で、自然が意図的に振る舞う様を描いていて、より客観的な良寛の自然観とは違っていると御風はまとめたのですが、私には「持てくる」と「くれたる」とが共に生活に溶け込んだ自然の振舞いに思えて、御風のような主観と客観の違いが見えないのです。それよりは、越後と信濃の人々が共有する自然との関わり、生活様式、さらには自然観、人間観、社会観が共に表現されていて、むしろ二人の共通点ばかりが目立つのです。より平明な「焚くほどは風が運ぶや落ち葉かな」であっても、同じ自然観を表していると思えるのです。

  蕪村の句「釣鐘に止まりて眠る胡蝶かな」に対して、子規は「釣鐘に止まりて光る蛍かな」と詠んでいます。これを誰も子規の盗作とは言わないのと同じように、一茶の句も良寛の句も、見事に同じ世界の一片を描いているのです。