雪解けの水音が四方に轟き渡り、それがあたかも地震の如しということから「地震滝」と呼ばれ、「地震」と書いて「なゐ」と呼ばれていたことから「苗名(なえな)」に変わり、今では「苗名滝」と呼ばれ、日本の滝百選に選ばれています。文化10(1813)年の春にその滝に心打たれた小林一茶が詠んだ句が「瀧けぶり 側で見てさえ 花の雲」で、滝の近くに刻まれています。
一茶には同じ春の句に「雪とけて 村いっぱいの 子供かな」があります。力強く感動的な自然の中に人々の暮らしがあり、そんな村に遅い春が訪れ、春の陽気の中で遊びまわる子供たちで溢れている情景が浮かんできます。そんな故郷の再生を願う気持ちに反対する人は少ないのではないでしょうか。古き良き追憶は昔を懐かしむ老人の心情の表出だけでなく、時には未来の人間の姿を考えるヒントになるのかも知れません。一茶が感動した自然、一茶が暖かい眼で見つめた村の子供たち、そんな里の生活が現在の私たちに何を教えてくれるのか、妙高出身の皆さんと共に考えていきたいものです。一茶が柏原で詠んだ句をいくつか挙げておきましょう。
しづかさや 湖水の底の 雲のみね
湖に 尻を吹かせて 蝉の鳴く
と野尻湖を優しく詠い、そして、
是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
けふばかり 別の寒さぞ 越後山
と豪雪の中の生活を詠っています。
一茶は宝暦13(1763)年、寒村柏原の中百姓の子として生まれました。三歳で実母と死別、産みの母の顔も姿も知りません。その後、八歳の時には継母がくるのですが、この継母と一茶の仲はすこぶる悪く、小さくか弱い動物や小鳥に一茶は常に同情を寄せました。孤独な一茶は十五歳で江戸へ奉公に出される。奉公先を転々とかえながら、二十歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになります。一茶は五十歳の冬、故郷に帰ります。そして、五十二歳で二十八歳の常田菊と結婚するのです。やがて、長男千太郎、長女おさと、次男石太郎、三男金三郎と次々に子宝に恵まれるも、いずれ夭折。文政7年、六十二歳の一茶は再婚、さらに二年後に再再婚しました。文政10年6月1日、柏原の大火に遭遇し、母屋を焼失した一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みます。この年の11月19日、一茶は中風により、六十五歳の貧寒な生涯を閉じました。
古郷やよるも障るも茨の花
(故郷は人を刺すバラの棘のようなものである)
一茶の句に「木枯や隣というも越後山」があるように、彼の生れ在所は柏原、越後との境です。前には妙高山、黒姫山、飯綱山が肩を並べ、後は戸隠です。この山々の裾野と、後に聳える斑尾山の裾との縫い目が柏原です。旧制新潟中学時代から有恒学舎の教師時代の会津八一は、短歌よりむしろ俳句に関心を寄せ、大学生時代から小林一茶に傾倒していました。有恒学舎に赴任したのを契機に、一茶の研究に打ちこみ、新井町の醸造家入村四郎(作)宅から一茶自筆の『六番日記』を見つけました。『一茶句帳』、『一茶句集』、『おらが春』にある従来知られている一茶の句は2,400~2,500句でしたが、この八一の新発見により、一茶の未公開の句が一気に2,500~2,600句ほど加わり倍増しました。
*北嶋藤郷「越州沙門良寛と秋艸道人會津八一-その俳句をめぐる一考察-」ではp.58に「新井町の醸造家入村四郎宅」とあるが、會津八一記念館の彼の生涯の記載では「新井町の醸造家入村四郎作宅」とある。