えちご妙高にかかわる俳人たちを想う(5)

 良寛の宗派は禅宗なのか、それとも浄土真宗なのか、判然としません。禅僧である良寛の和歌には念仏が当たり前のように登場します。

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ 草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 何が共通点なのかと探すなら、禅宗浄土真宗も経典を丁寧に読みながら、その内容を理詰めで理解するという理性的なやり方ではなく、座禅を組み、念仏を唱えるという身体行為の実践によって悟る、救われることを目指しています。理屈や知識を使って形而上学的に世界や人間を理解するのではなく、直観や信念に基づいて魂の解脱や救済を実践、実現しようとする点では二つはよく似ているのです。

 釈迦は禅宗だったか、門徒だったかなどナンセンスな問いですし、キリストはカトリックでもプロテスタントでもでもありません。良寛の才能は宗教実践や思想の展開にではなく、文学や書道の作品に現れます。その文学とは和歌、俳句であり、そして書ですが、それらは感情や情緒の表出が中心であり、知識や思想を正確に述べるものではありません。ですから、和歌や俳句によって仏教の各宗派の違いを正確に表現することなどできません。詩によってもカトリックプロテスタントの違いを正確無比に表現することなど、そもそもどんな詩人も考えない筈です。

 科学理論が完全であれば、議論の必要はなく、解けない問題は基本的にないことになっています。でも、理論が不完全だと、その穴を埋めるために解釈や説明、そして物語までが生まれることになります。莫大な経典はそのようなものと考えることができます。キリストや釈迦が特定の宗派に属していたなどということは毛頭なく、不完全な宗教理論の不備が解釈を許し、そこから解釈の違いが生まれ、無数の宗派が生まれたのです。そして、理論でわからない部分は信仰、信念で埋めることになりますが、それらに準じるのが文芸です。詩、和歌、俳句、音楽、絵画、書を通じて感覚的に信仰を表出することによって、人々に訴えることになります。この文芸による表現は文字による説明と違ってとても印象的ですが、正確さに欠けます。  

 こうして、良寛が文学に長じていて、権威や伝統にとらわれない性格を持っていたことから、彼にとっての宗教実践は自ずと宗派を超えていたということになります。そして、彼の生活も普通のそれにとらわれず、超越したものでした。

 一方、日常の生活に執着し、苦悩したのが一茶。彼は宝暦13(1763)年、寒村柏原の中百姓の子として生まれます。三歳で実母と死別、その後八歳の時にきた継母と一茶の仲はすこぶる悪く、小さくか弱い動物や小鳥に一茶は常に同情を寄せます。孤独な一茶は十五歳で江戸へ奉公に出されます。奉公先を転々とかえながら、二十歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになります。一茶は五十歳の冬、故郷に帰り、五十二歳で二十八歳の常田菊と結婚します。やがて、長男千太郎、長女おさと、次男石太郎、三男金三郎と子宝に恵まれるも、いずれ夭折。文政7年、六十二歳の一茶は再婚、さらに二年後に再再婚しました。文政10年6月1日、柏原の大火に遭遇し、母屋を焼失した一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みます。この年の11月19日、一茶は中風により、六十五歳の生涯を閉じました。