「一茶と良寛の違い」への私的な解答

 江戸時代の三大俳人松尾芭蕉与謝蕪村、それに小林一茶芭蕉より100年近く遅れて蕪村、その蕪村より50年遅れの一茶。また、良寛と一茶は同世代人。芭蕉が生涯に残した俳句は約1,000句、蕪村は約3,000句、一茶はなんと約20,000句を残している。それに対して、良寛の俳句は100句余りに過ぎない。

 一茶は国民詩人であり、もっとも親しまれている俳人だろう。芭蕉は宇宙の「造化」の構造を、蕪村は宇宙と人間の関係の構造を表したのに対して、一茶には存在も非在もなく、ひたすら愛をうたい、怒りを表した。一茶は人とその生活世界にこだわった。故郷は「古郷やよるも障るも茨の花」のように人を刺す茨の棘であり、また「死支度致せ致せと桜哉」の桜は、死支度を急がせる花でしかない。

 良寛の俳句は100句余りと述べたが、彼は漢詩700余首、和歌1,400首を詠んでいる。良寛は日本の漢詩人の中では最高峰に位置し、長歌柿本人麻呂に匹敵する評されてきた。だが、俳句は句数の少ないせいもあり、その評価も様々である。

 宇宙創造の基本の力を芭蕉は「造化」と呼んだ。それは神のようなもので、芭蕉出雲崎で、世界の創造主を見て、「あら海」、「佐渡」、「あまの河」と表現した。子規はこのような芭蕉の俳句を「雄渾豪壮」と呼んでいる。蕪村もまた「雄麗艶美」の俳句を完成した俳人で、非在を通して存在を捉えた。この典型例が「待人の足音遠き落ち葉かな」。

 さて、良寛と一茶の類似句について考えてみよう。清貧な良寛の句と貧寒な一茶の句とに類似点が多いことはよく知られている。一茶は、良寛より5年遅れて誕生し、4年早く他界していて、二人は65年間も同時代人として生きた。しかも、良寛は越後の国上山などに、一茶は信濃の柏原に、国を隣にして生活していた。二人が互いに何らかの影響を受けたと考えるべきだろう。

焚くほどは風が持てくる落ち葉かな  (良寛)    

焚くほどは風がくれたる落ち葉かな  (一茶)  

(「もて来る」は動詞「もてく(持て来)」の連体形、「くれたる」は動詞「くる(呉る)」に助動詞「たり」がついて、意味は「与える」。)

 上の一茶の句は、『七番日記』にある。良寛の句は58歳の時と言われ、一茶の俳句は良寛の俳句に4年先行する。この辺の事情は既に御風が述べていた。それを引用しておこう。

 

二句に於ける「もて來る」と「くれたる」の相異についてである。今後者が當時ひろく人口に膾炙した結果良寛の耳にも入り、それが又良寛の口から多くの人々の耳に傳はつたのが事實であつたとして見ても、「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と「焚くほどは風がもて來る落葉かな」と全然同一句として見ることは出來ない。「くれたる」が良寛によつて幾度となく口ずさまれてゐるうちに、いつしか「もて來る」と變つてしまつたのだとして考へると、その轉化にはかなり深い意味がある。ちよつと考へると大した相異はないやうであるが、深く味つて見ると僅にその一つの言葉の相異によつて二つの句全體がそれぞれ全く獨立して存在し得るほどの結果を示してゐるとさへ考へ得る。「くれたる」にはなほ自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相對的である。しかし「もて來る」には自然が擴充してゐる。主我的なはからひがない。自然は自然である。その恩惠にあづかるのはこちらからである。それに感謝するのもこちらの心からである。そんな風に見て來ると、やはり、一茶は一茶、良寛良寛だとうな づかれる。

(『一茶と良寛芭蕉』緒言(1947、初版1925春秋社))南北書園、

 

 一茶の句の方がより主観的で、自然が意図的に振る舞う様を描いていて、より客観的な良寛の自然観とは違っていると御風はまとめたのだが、私には「持てくる」と「くれたる」とが共に生活に溶け込んだ自然の振舞いに思えて、御風のような主観と客観の違いが見えないのである。それよりは、越後と信濃の人々が共有する自然との関わり、生活様式、さらには自然観、人間観、社会観が共に表現されていて、むしろ二人の共通点ばかりが目立つのである。より平明な「焚くほどは風が運ぶや落ち葉かな」であっても、同じ自然観を表していると思えるのである。

  蕪村の句「釣鐘に止まりて眠る胡蝶かな」に対して、子規は「釣鐘に止まりて光る蛍かな」と詠んでいる。これを誰も子規の盗作とは言わないのと同じように、一茶の句も良寛の句も、見事に同じ世界の一片を描いている。