えちご妙高にかかわる俳人たちを想う(1)

 コロナ禍の正月を心穏やかに過ごすのは至難のことだが、じっくり故郷について考え、交わってみるのも過ごし方の一つではないだろうか。越後と信濃は我が故郷、湾岸地域が私の今の住まいとなれば、俳句を軸につながる人々は芭蕉良寛、一茶、相馬御風、そして会津八一といった人々が浮かび上がってくる。地名とすれば、深川、出雲崎、柏原、糸魚川、新潟、そして板倉など。

 『おくのほそ道(奥の細道)』は、西行の500回忌にあたる1689(元禄2)年に、門人の曾良を伴って深川を発ち、奥州と北陸道を巡った旅行記である。芭蕉は行く先々で多くの句を詠んでいるが、7月4日の出雲崎での「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」もその一つ。その出雲崎に生まれたのが良寛(1758-1831)。彼は江戸後期の曹洞宗の僧侶であり、歌人俳人、書家。互いに直接の交遊はなかったが、良寛と同時代の俳人となれば、信濃柏原の小林一茶(1763-1828)。「焚くほどは 風がもて来る 落葉かな」と「焚くほどは 風がくれたる 落葉かな」というよく似た句はそれぞれ良寛、一茶の句と言われる。

 明治に入り、正岡子規が俳句を一新するなかで、相馬御風(1883-1950)は早稲田大学校歌の作詞者であり、糸魚川出身の文学者。その先輩にあたる会津八一(1881-1956)は新潟出身で、秋艸道人と号する文学者であり、早稲田大学卒業後に板倉の有恒学舎で英語を教え、一茶の俳句を多く発掘している。

*御風の著書『一茶と良寛芭蕉』(初版は春秋社、1925年)はWebで読むことができる。