えちご妙高にかかわる俳人たちを想う(2)

 『おくのほそ道』では、江戸深川を3月に出発し、日光、松島、平泉まで行き、山形を通って新潟から金沢に入り、その後、敦賀に行き、8月に大垣に到着、さらに伊勢に向けて出発するまでが述べられている。深川の仙台堀川橋のたもとにある採茶庵(さいとあん)から旅立つが、採茶庵は芭蕉の門人杉山杉風(さんぷう)の別宅だった。芭蕉は暮らしていた芭蕉庵を売り払い、この「採茶庵」に移り、そこから隅田川をさかのぼり、奥の細道の旅が始まる。最初に登場する句「草の戸も住替はる代(よ)ぞ雛(ひな、かり)の家」は、引き払った芭蕉庵に新しく住む人は、雛人形を飾り、華やかな家になるだろうか」と新しく住む人を想っている。

 旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、彼らの詩心に触れること。旅するなかで、芭蕉は不変のものの本質「不易」と、変化を続ける「流行」とを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえる「不易流行」説を生み出していく。旅の間に体得した思想は「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」、つまり「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」、すなわち「両者の根本は一つ」であると主張する。『おくのほそ道』は文学作品であり、随行した曾良が旅の事実を書き留めた『曾良旅日記』とは異なる。その紀行内容は和漢混交文の格調高い文章で描かれている。

 そんな能書きを離れ、芭蕉たちのえちご妙高近辺の旅程を見てみよう。出雲崎(いずもざき、出雲崎町)は日本海に面した小さな町。かつては北国街道の宿場町。海を隔て佐渡まで50kmほど。その出雲崎良寛生誕の地。元禄2年7月4日弥彦を出立、即身仏で有名な西生寺(長岡市)を参拝。7月5日出雲崎を立ち、米山峠を経由して鉢崎(はっさき、柏崎市)に至り、鉢崎で宿泊。7月6日鉢崎の宿を出発した芭蕉は、北国街道を歩き、黒井まで来ると、ここから「黒井道」と呼ばれた海岸沿いの道を進む。そして、関川の河口を舟で渡り、今町(上越市)に到着した。今町では宿泊を予定していた中町の聴信寺に紹介状を届けたが、忌中であると告げられたため同寺を立ち去り、古川市左衛門方に宿をとった。この時の俳諧で、芭蕉は発句「文月(ふみづき)や 六日も常の 夜には似ず」(今日は七夕の前夜であり、いつもとは異なる雰囲気がある)と詠んでいる。7日朝は雨で、昼に雨が止み、聴信寺に招かれる。夜、佐藤元仙(右雪)方で俳諧があり、旧暦の7月7日に作ったのが「荒海や 佐渡に横たふ 天河」。8日夜中、風雨甚だし。石塚喜右衛門(左栗)方に招かれた後、高田に出立。当初、池田六左衛門方に宿泊の予定であったが、招きにより医師細川春庵方に宿泊。夜の俳諧で、芭蕉は「薬欄(やくらん)に いづれの花を くさ枕」(たくさんの薬草が咲いている。今夜はどの花の傍らで寝たらよいものか)と詠んでいる。 9日折々小雨あり、俳諧。細川春庵方に宿泊。10日折々小雨。夕方より晴れたが、暑さ甚だしく、中桐甚四郎方で俳諧。夕方、細川春庵方へ帰り、宿泊。11日は快晴で、高田(上越市)を立ち、五智国分寺と居多神社を参詣。名立の宿泊予定先に案内状が届いていなかったため、 名立を通り過ぎ、能生の玉や五郎兵衛方(宿屋)に宿泊。12日快晴、早川で芭蕉がつまずき衣類を濡らしたため、川原で干す。糸魚川宿新屋町の左五左衛門方で休憩した後、親不知を抜け、市振に宿泊 。

 芭蕉は『おくのほそ道』本文の中で、越後の北国街道についてはほとんど出来事を記さず、「暑湿の労に、神(しん)をなやまし病おこりて、事をしるさず」と述べるのみ。そして、その段の最後に二句だけ記している。その二句とは「文月や 六日も常の 夜には似ず」と「荒海や 佐渡に横たふ 天河」。