ヒスイと奴奈川姫

 奴奈川姫伝説についての私的な基本資料は次の二つです。いずれもWebで簡単に読むことができます。

 

(1)上越市在住の日本画家川崎日香里氏のブログやFBと、奴奈川姫伝説を解説している「古代史日和大国主命が求婚するヒスイの女神奴奈川姫」(1)、(2)(https://kodaishi.net/person/gods/nunakawahime)は直感的に伝説を知ることができます。

(2)土田孝雄「奴奈川姫伝説とヒスイ文化について」、『地学教育と科学運動』、76号、pp.64-72、2016は、糸魚川地域のヒスイと伝説の適確な解説になっています。

 

 出雲族がヒスイを求めて奴奈川族を統合していったとすれば、頚城地域だけでなく、さらに東北へと北進を続けたと簡単に想像できます。実際、大陸から来たヤマト族に出雲族が敗れ、畿内から九州や東北に逃れます。北へ逃れたのが東北人のルーツという東北出雲説も提出されています。

 ヒスイに関しては、相馬御風(1883年-1950年)の貢献が大です。西頸城郡糸魚川出身で、母校の校歌「都の西北」や「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られています。糸魚川に帰郷後は良寛の研究に携わり、奴奈川姫伝説を元にヒスイ(翡翠)の産出を推測し、1939年にヒスイの発見が確認されました。ヒスイは古墳時代以降、使わることがなくなり、明治・大正時代に遺跡から発見されるヒスイの玉は大陸由来のものと考えられていました。糸魚川でのヒスイの再発見には御風が関わっていたのです。

 御風は「コシの国」の奴奈川姫がヒスイの首飾りをしていたという伝説を基に、ヒスイが糸魚川にあるのではないかと推定し、元警察署長の鎌上竹雄ヒスイ探索を頼みました。鎌上は長女の義父伊藤栄蔵にヒスイ探索を託し、その伊藤栄蔵が昭和13(1938)年に発見し、翌年ヒスイだと鑑定されたのです。