ふるさと雑想

(1)ふるさと化し、脱ふるさと化する物語

 様々な人々が日本に渡来し、彼らが知識、技術、思想、宗教などをもたらし、それらが国をつくる礎として利用され、奈良や京都を中心に日本の国造りが始められます。その建国の歴史には実に多くの外来のものが移入され、それらが巧みに組み合わされ、融合され、日本の歴史がつくられていきました。

 なかでも権力者たちが注目したのが仏教です。仏教は国造りの切り札として使われ、仏教による鎮護国家が目指されました。仏教の政治的な強制が真に自発的な信仰活動に変わるのは鎌倉仏教です。官製の仏教が民衆の仏教に変わり、ふるさと化され、人々の間に瞬く間に広まり、それが脱ふるさと化され、日本全土へと広がっていきました。

 移入され、各地に残った物語は人々に静かに語り伝えられ、書き記され、守られていました。それぞれの地方、地域で受容され、そこで個別的に取捨選択され、異なる地域で異なる物語が伝承されていくことになります。この文化進化は様々で、各地域に偶然的な違いを生み出していきます。外来種としての物語は先着の物語と競合しながら、帰化種として風雨にさらされ、生存闘争が繰り広げられました。その結果、移入された物語はふるさと化され、土着の物語に変わっていったのです。

 思いきり単純化すれば、外来種の宗教や物語が定着することが「ふるさと化」であり、それがさらに勢いを増して生息区域を広げていくのが「脱ふるさと化」です。このように考えると、昔話や伝説はまずオリジナルの物語が移入され、根付き、ふるさと化されたものだということになります。そして、昔話や伝説のシナリオがそこで再推敲され、その中の幾つかが人々の関心を呼び、脱ふるさと化され、芸能化された形で全国版になるのです。比較的固定的な地方版に対して、全国版の流行は栄枯盛衰が激しく、実に流動的です。

 このような栄枯盛衰を信濃妙高に残る「熊坂長範」や「児雷也」の伝説に見ることができます。海外から日本へ渡来した知識や文化が引き起こす現象に共通する特徴が知識や宗教だけでなく、昔話や伝説にも見られるのです。それだけでなく、生物の外来種の歴史の多くも似たような経緯を辿り、よく似た現象を見出すことができるのです。生物進化と文化進化には多くの共通部分があることは直感的に理解できます。

 私たちを惹きつける物語は単なる奇談でも超常現象でもなく、アウトローが超人的能力をもって戦いを繰り広げる物語であり、私たちの心を揺さぶり、本能を刺激します。そのような物語が脱ふるさと化され、人気を博して全国版となっていき、能や歌舞伎、講談や落語といった芸能を生み出し、それらを通じて物語は人々に受容され、生き残っていくことになります。それは鎌倉仏教が信徒を増やし、人々に熱狂的に受け入れられていき、社会の一部として残存しているのによく似ています。

 その一例が児雷也伝説です。蝦蟇仙人(がませんにん)は中国の仙人で、青蛙神を従えて妖術を使うとされていますが、それが『自来也説話』、『児雷也豪傑譚』に登場することによって、日本では児雷也として人気者になりました。中国で著名な八仙を差し置いて、日本では蝦蟇仙人が人気を博したのです。その蝦蟇仙人と同じく、蝦蟇の妖術を使う仙人が仙素道人で、彼が住むのが妙高山児雷也妙高山で仙素道人から蝦蟇の妖術を学び、黒姫山に住むことになり、越後の青柳池で生まれた大蛇丸と戦うことになります。大蛇と蝦蟇は中国由来の超動物であり、これに蛞蝓(ナメクジ)が加わり、人々を惹きつけること間違いなしの「三竦み」という構図をもった戦いのシナリオが出来上がったのです。

 自来也児雷也からNARUTO自来也をモチーフにした忍者で蝦蟇仙人の異名を持ち、蛙を使役する忍術を使う)まで、脱ふるさと化された芸能の人気の栄枯盛衰は激しいものがあり、それはこれからも続く筈です。

 

(2)神話や昔話:柳田と折口

 柳田国男は『昔話と文学』(1938)序で、昔話を「神話といふものゝひこばえ(切り株や木の根元から出る若芽)であることは、大体もう疑ひは無いやうであります」(新全集9、p.252)と述べ、神話と昔話の関係をどのように捉えていたかがわかります。

 折口信夫は古代日本人の心に沿って『古事記』を読み解く必要を説き、神と人間と自然の境界線がファジーなものであり、その境界線を明確にするような試みは『古事記』を壊すことだと考えていました。

 柳田を読むと日本と自分とを懐古する気分になるのですが、ふるさとや日本についての知識が増える訳ではありません。自分の知らなかったことを思い出すかのように感じられ、知識と物語の違いに気づくのです。柳田の場合、「民俗学」というより、「民間伝承」と呼ぶ方が適切でしょう。一方、折口は神話や地名に熟知していて、その名の発生と変遷を軸に様々に考える人でした。

 例えば、柳田の「蝸牛考」(1930)によれば、「ナメクジ」、「カタツムリ」、「でんでんむし」の順に呼び方が変化していて、それを自分の子供時代に重ねながら読んでしまいます。また、折口がケガレは「死の力」、カミは「生命の力」を表すと述べると、神道の神と穢れとの関係が腑に落ちるのです。

*私は折口のことを国文学専攻の先生方から口承、伝承を通じても知ることができました。

 

(3)ふるさとを知り、遡る

 若き西脇順三郎は徹底して西洋に傾倒しました。そのため、「ふるさと」を嫌悪し、「小千谷」という言葉すら厭いました。でも、戦後は折りあるごとに小千谷を訪れ、子供の頃の思い出の地を歩き、独特の風景画を描き、信濃川を愛でた。彼のふるさと転向は何ともわかりやすいのです。

 10歳前後の私の生活世界(Lebenswelt)はとても狭く、妙高山塊は遠景でしかなく、歩き回れる里山、経塚山、陣場、松山などが近景で、私が遊びまわる場所でした。今では妙高市の象徴である妙高山は私の生活世界では遠景画像の一つに過ぎませんでした。小出雲ではない新井の街中の子供たちにはそんな里山さえみな遠景に過ぎなかった筈です。子供はみな自分の家を中心とした生活世界に慣れ親しんでいて、日々の生活世界、つまり、ふるさとは実に狭かったのです。

 望郷、ノスタルジア、懐古はどれも懐かしくふるさとを思うのですが、嫌な思い出のふるさともあります。ふるさとを嫌悪する一例が室生犀星の詩。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

(「小景異情(その二)」、「小景異情」は六篇の短い詩からなる。)

 

眼前の小さな情景に素直に浸ることのできない犀星、ふるさと往還を繰り返していた犀星が、ふるさと金沢にいて、東京に帰ろうとする時に詠んだ詩です。ふるさとを遠くから想い出しているのではありません。ふるさとは遠くにあって、想起されるもので、そうでなければ御免こうむりたいものなのです。つまり、この詩のモチーフはふるさとへの憎悪そのもの。でも、萩原朔太郎は「遠きみやこにかへらばや」を遠いふるさと金沢に帰りたいと理解し、この詩を望郷の抒情詩としました。この注釈を覆したのが吉田精一。吉田はふるさと金沢での作品と捉えたのです。

 ふるさとは異郷であり、あるいは歳をとって思い出すもの。ふるさとは遠い記憶の中の風景であり、子供時代の生活世界です。ふるさとの生活世界の記憶は過去の記録につながり、現在や未来のふるさとではありません。ふるさととは一人の過去のことだけでなく、家族の過去であり、人々の過去の集まりでもあります。ふるさとは自らを含む過去への入り口であり、自らの起源への取っ掛かりとなる目印なのです、特に老人には。

 

(4)西脇順三郎とふるさと

 西脇順三郎は1894年、新潟県小千谷に生れました。1911年中学を卒業し、画家を志し上京。藤島武二を訪問、内弟子となります。1912年慶應義塾大学に入学、1917年卒業論文「純粋経済学」を全文ラテン語で書きます。1920年慶應義塾大学予科教員に推され、この頃から文章を執筆し始めます。上田敏の『海潮音』の雅文調、美文体に激しく反撥し、萩原朔太郎の『月に吠える』に大きな衝撃を受けます。順三郎が朔太郎に出会ったことは、近代詩、現代詩を語る上で、不可欠の出来事で、朔太郎の『月に吠える』(1917)と順三郎の『Ambarvalia』(1933)は、大正、昭和期を代表する詩作となります。

 1922年慶應義塾留学生となって英語英文学、文芸批評、言語学研究のため渡英。1925年に帰国し、26年慶應文学部教授となり、古代中世英語英文学、英文学史言語学概論を講義し、1929年には日本英文学会第1回大会で ‘English Classicism’ と題して英語で講演し、英文学者としても表舞台に立ちます。

 『Ambarvalia』以後は詩集を出さず、戦火がひどくなると故郷の小千谷疎開し、そこで絵を描き、南画の研究などを行い、『旅人かへらず』の構想を抱きます(小千谷市立図書館には順三郎寄贈の記念室、記念画廊があります)。終戦後、再び上京し、詩作を始め、「旅人は待てよ/このかすかな泉に/……」で始まる東洋的幽玄漂う長篇詩が1947年刊の『旅人かへらず』でした。この詩集には自然への永遠の郷愁が詠われています。

 その「はしがき 幻影の人と女」を引用してみましょう。

 

 自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覺の世界、肉體の世界がある。これ等は大體理知の世界と自然の世界の二つに分けられる。

 次に自分の中に種々の人間がひそんでゐる。先づ近代人と原始人がゐる。前者は近代の科學哲學宗教文藝によつて表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民俗學等に表現されてゐる。

 ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出來ない割り切れない人間がゐる。

 これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考へる。

 この「幻影の人」以前の人間の奇蹟的に殘つてゐる追憶であらう。永劫の世界により近い人間の思ひ出であらう。

 永劫といふ言葉を使ふ自分の意味は、從來の如く無とか消滅に反對する憧憬でなく、寧ろ必然的に無とか消滅を認める永遠の思念を意味する。

 路ばたに結ぶ草の實に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思はれる。

 次に自分の中にある自然界の方面では女と男の人間がゐる。自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存續である。隨つてめしべは女であり、種を育てる果實も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は單にをしべであり、蜂であり、戀風にすぎない。この意味での女は「幻影の人」に男より近い關係を示してゐる。

 これ等の説は「超人」や「女の機關説」に正反對なものとなる。

 この詩集はさうした「幻影の人」、さうした女の立場から集めた生命の記錄である。

  昭和二十二年四月

                                  西脇順三郎

 

「ふるさと」と「幻影の人」とが老人の私の記憶の中で重なります。その私は昭和二十二年十二月に同じ越後で生まれました。ふるさとは人の特性を巧みに利用した自然の悪だくみのようなもので、それが人の本性をつくる母親になっているようです。子供時代の記憶は頑固で、しつこく、残虐で、それゆえ、私のふるさとの根源にあるのです。

 

(5)西脇順三郎の我流略歴

 小千谷の縮問屋に生まれた西脇順三郎は高価な英書ばかり読んでいました。そのためついたあだ名が「英語屋」でした。彼は洋書と英語への偏愛ぶりを「舶来の本は実にいい香りがしてシャボンのようだと述べています。少年の夢は英語で「欧米人と同じように考え、話し、書く」ことで、自閉症的、偏執的な言葉至上主義は入り組んだ配線盤や回路の機械いじりに没頭するように言語の工学を追求させ、楽しみ、言語を工学的構造としてとり扱う感性を磨くことになります。そして、その修行が彼を詩人にしたのです。

 日本文学の水気、湿りを嫌い、「抒情詩を読むと風邪をひく」と書いた西脇はギリシャ語、ラテン語から英語を含むインド・ヨーロッパ語族を深く愛しました。1925年にロンドンで刊行した第一詩集『Spectrum』は全篇英語で、『Ambarvalia』にはラテン語詩が入っています。でも、1947年に自分の内面に潜むものを「幻影の人」と名付け、女性的なものに注目し、『旅人かへらず』を発表し、水と湿り気が淋しさを醸成する日本的感性の詩を発表します。その後も、『失われた時』、『豊饒の女神』、『えてるにたす』などの一連の詩集により、ノーベル賞候補にも名を連ねました。

 普遍的で、理性的な『Ambarvalia』は、戦後に『旅人かへらず』の湿った風土の記憶のもつ原始的なものへと回帰するのですが、脱ふるさと化された世界はふるさとへと淋しさと共に帰巣することになるのです。

 

(6)小川未明の「ふるさと」

 小川 未明(おがわ みめい、1882-1961)は、「日本のアンデルセン」、「日本児童文学の父」と呼ばれたのですが、戦後1950年代の童話伝統批判で集中砲火を浴びました。21世紀に入り、彼の作品は再評価され出しています。

 未明は上越市に生まれ、父の澄晴は上杉謙信の崇拝者であり、春日山神社を創建しました。旧制高田中学、東京専門学校(早稲田大学の前身)専門部哲学科を経て大学部英文科を卒業、坪内逍遙島村抱月から指導を受けました。相馬御風は中学以来の学友です。

 青空文庫に「ふるさと」、「ふるさとの林の歌」がありますから、是非読んでみて下さい。そこに登場する「ふるさと」は未明のふるさと上越市を彷彿させるのですが、都会である東京との対比的な表現は確かに昭和のものです。私を含めて多くの人が、特に若い人たちはそのふるさと像が現代のものとは随分と違うと感じるのではないでしょうか。とはいえ、私を含めて、現在の日本人が「ふるさと」をどのように捉えているかと問われると、答えが見つかるとはとても思えないのです。

 さらに、小川未明著、小埜裕二 編・解説『新選小川未明秀作随想70 : ふるさとの記憶』蒼丘書林、2015.7を読んでみるのがいいかも知れません。また、相馬御風のふるさと観と比べてみると、面白い対比が見られる筈です。

 

(7)相馬御風の「ふるさと」

 糸魚川歴史民俗資料館(相馬御風記念館)傍に御風の文学碑があり、そこには『還元録』(1916、御風33歳)の一節が刻まれています。彼は『還元録』に「ふるさと」回帰のいきさつを著し、友人に配り、糸魚川に帰ります。

 さて、碑に刻まれている歌は弘法大師空海が弟子の智泉が亡くなった時に詠んだものと伝えられています。御風は自らの心身の苦悩に対し、真言宗の教えと自分のふるさとを重ね合わせたのです。

 

阿字の子が 阿字のふるさと 立出でて また立返る 阿字のふるさと

あじのこが あじのふるさと たちいでて またたちかえる あじのふるさと)

(この世は、かりそめの宿みたいなもので、帰るべき場所は阿字の心の中です。私たちの誰もが元々は阿字の世界にいて、修行のためにこの世界へ生まれ出で、そして再び阿字の世界に戻るのだ、という真言宗の教えを詠んだ歌です。)

 

 阿字(あじ)はサンスクリットの最初の文字で、万有の根源を象徴しています。密教では宇宙を法身(真理そのものとしてのブッダの本体のこと)とみなし、阿字はそれを象徴する文字で、胎臓界大日如来を意味しています。密教では、阿字はすべての梵字に含まれており、宇宙のどのような事象にも阿字が不生不滅の根源として含まれていると考えます。ですから、大日如来は「森羅万象」、「宇宙」、「いのちが循環するそのもの」を象徴する仏で、「阿字」はその大日如来を指します。それゆえ、阿字は「大日如来の子どもたちが、大日如来のふるさとからやってきて、地球上で生命をもつ存在として生活し、その役目が終わると、また大日如来のふるさとに戻っていく」という密教の世界観を表現しているのです。密教では大日如来が宇宙であり、宇宙の真理であり、すべての命あるものは母なる大日如来から生まれ、釈迦如来を含む仏はすべて大日如来の化身だと考えるのです。

 このように見てくると、(ここでは述べなかった)トルストイの思想と真言密教の教えが御風に帰郷を促し、ふるさとでこそ文学的な実践が可能になると御風は考えたのではないでしょうか。

 御風は多くの校歌の歌詞に地域の特徴を詠い込みました。彼は200校を超える校歌をつくっています。早大、日大の校歌の歌詞も彼の作品です。新潟県内だけでも144校の校歌を作詞しています。

 また、御風は奴奈川姫伝説を元に糸魚川でヒスイ(翡翠)が産出すると推測し、それが1935年のヒスイの発見につながりました。

 

(8)「ふるさと」の堀口大學

 既に何度か堀口大學について述べました。堀口大學は1892(明治25)年東大赤門の前の家で生まれ、そのため「大學」と名付けられました。2歳で外交官だった父の故郷長岡に戻り、そこで長岡中学校卒業まで過ごします。慶應義塾を中退し、14年間に及ぶ外遊中に第一次世界大戦中スペインに亡命していた画家マリー・ローランサンと出会い、フランスの同時代の芸術に目覚めます。中でもキュビスムの擁護者であった詩人アポリネールや前衛詩に強い影響を受けます。1925(大正14)年、第一書房より訳詩集『月下の一群』を出版しますが、それは友人佐藤春夫に捧げられ、その名訳は若い詩人たちに大きな影響を与えました。その後は長谷川潔棟方志功の挿画で飾られた美しい詩集や翻訳書を次々と発表していきます。

 昭和16年から静岡県興津の水口屋別荘に疎開していましたが、昭和20年7月妙高市関川にある妻マサノの実家畑井家に再疎開しました。そこに1年5か月ほどいて、昭和21年高田の南城町に移り、さらに4年過ごしました。その後、神奈川県の葉山町に家を構え、そこで多くの詩集を出し、89歳で亡くなります。疎開先の高田には写真家濱谷浩、陶芸家齋藤三郎、彫刻家戸張幸男などの若き芸術家が集まってサロンの様相を呈していました。南城町は私も何度も通っていたのですが、大學がいたことなどまるで知りませんでした。

 昨日新潟は雪がたくさん降ったようですが、雪や妙高山について大學が残した詩を引用してみましょう。『雪国にて』(昭和22年、柏書院)に「杉の森」という短い詩があります。

 

たださへさびしい杉の森

まして山里 雪の中

 

『冬心抄』(昭和22年、斎藤書店)の「白ばら」は妙高山を白ばらに喩えたものです。

 

西のかた

いち夜に咲いた一輪の

空いっぱいの大白ばら!

雪晴れの朝の妙高

 

妙高高原駅から関川の信号を過ぎて右側に国天然記念物の大杉がある関川天神社があります。その天神社の近くに大學疎開の地があります。天神社の森に続いて、背後に妙高山を望む妙高高原南小学校(現妙高市妙高高原南小学校、残念ながら妙高高原北小学校と妙高高原南小学校は来年4月1日に統廃合され、北小学校の校舎を使う)があり、大學はその校歌を作詞しています。その歌詞は次の通りです。

 

(一番)

越後信濃の国ざかい

瀬の音絶えぬ関川の

清き流れに名にし負う

歴史にしるき関所あと

 

(二番)

姿凛々しき妙高

高根の風を身に受けて

われらこの地に生まれいで

爽けき中に人となる

 

(三番)

匂うばかりの雪晴れの

あしたの空のけざやかさ

天は瑠璃色 地は真白

われらが行くて祝うとや

 

 「野尻湖」という詩は「都なる青柳瑞穂に」捧げられているのですが、大学2年生のフランス語の授業で、モーパッサンの短編集を読まされた青柳先生の姿が浮かび上がってきました。彼は1922年慶應義塾大学仏文科に入学。在学中にアンリ・ド・レニエの小説を日本語に翻訳し、永井荷風の個人指導を受けます。大学卒業後は堀口大學の門人として創作詩を発表、その後は翻訳家となりました。青柳先生の授業はもっぱらモーパッサンのことだけで、荷風も大學も登場しませんでした。さて、その詩とはどんな内容なのでしょうか。寡黙な越後や信濃の人たちとは違って、随分と饒舌に、賑やかに「ふるさと」を詠っています。

 

小田 坪田 それにやつがれ

三人で君を待ち

三人で釣をした

その日 野尻湖は瑠璃いろの玻璃だった

空は湖水とひと色だった

波は湖岸の藤波ばかり

かたの揃ったハヤが釣れた

どのハヤも君に似てゐた

山々がビクをのぞいた

妙高も 黒姫も 飯綱も、斑尾も

どの山も姿があった

どの山も青山だった

高根には雪が残って

蝉はまだ珍らしかった

クヮッコウがこだまし合った

*玻璃:水晶、ガラス、藤波:風で藤の花が波のようにゆれること、青山:草木が青々と茂る山

 

(9)「ふるさと」トリヴィア(1)

 中世の教養科目(リベラル・アーツ)は文法、修辞学、論理学から成る初級の3科 trivium(複数形はtrivia)と、算術、天文学幾何学音楽学の上級4科 quadriviumで構成されていました。そこからトリヴィア(trivia)は「初歩的でつまらない」という意味になったようです。数学のテキストには証明するまでもなく、自明なことをtrivialと言います。これが「トリヴィア」についてのトリヴィアです。

 そこで、次のトリヴィア。「故」とは、ふるい、むかしの「故事」、「故実」を意味しています。さらに、「故郷」や、「故障」、「事故」も意味しています。「故意」、「故人」といった意味もあります。よく使われる「何故」にも登場します。「郷」もふるさと、生まれたところのことですから、「故郷」がふるさとを意味していることはほぼ自明です。

 「故郷」(こきょう、原題:故鄕)は魯迅の代表作ともいえる短編小説の一つですが、「ふるさと」を訳すと、Hometown、Pueblo natal、Ville natale、Heimatなどとなります。中国語だと、故乡;自己生长的土地(自分の生まれ育った土地、one’s native land)です。さらに、英語にはbirthplace; homeland; home; a place dear to one's heart; one's spiritual homeなどがあります。

 故郷(こきょう)は「生家、生まれた土地、生まれ故郷」から「自分の土地、子供時代を過ごした場所」へと広がり、「記憶の中の生れた環境、私の生まれ育った文脈」などへと拡散していきます。こんな字句の詮索をしていても何もわかりません。「ふるさと」はとても厄介な概念で、それに対して民俗学の貢献など何とも物足りません。

 「婿をもらった一人娘や、隣の家に嫁に行った娘はどんなふるさと観をもつのか」という問いは一見興味深い問いに思えるのですが、生れ故郷に暮らし続けることはふるさとを考える上で重要なのでしょうか。

 カリーニングラード州はロシアの飛び地。ここはかつてのドイツ騎士団領で、19世紀にドイツを統一に導いたプロイセン王国揺籃の地です。同名の州都はかつてケーニヒスベルク(Königsberg、ドイツ語で「王の山」)と呼ばれ、哲学者カントが終生一歩も出なかった都市で、プロイセン公国プロイセン王国の首都でした。故郷を一歩も出なかったカントは偏狭な精神の持ち主とは程遠く、物質、精神、世界について思いを巡らしました。上記の問いが有意味だということの反例がカントです。

 人生とは旅人のようなものだと力説したのが芭蕉で、彼はカントと違って旅を重視しました。『おくのほそ道』の序文は「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。」で、旅こそが人生であると述べています。

 カントと芭蕉に「あなたにとって旅とは何か、ふるさととは何か」と尋ねてみたくなります。人生が旅であることを認めれば、旅に出ることがふるさとを出ることに繋がっています。旅に出なかったカントでも彼なりの心の旅をしていたのであれば、それは芭蕉の心身の旅と重なることになります。

 

(10)「ふるさと」トリヴィア(2)

 次は「ふるさと」の漢字表記についてです。「ふるさと」を漢字で書くと「古里」なのだそうです。私などは「ふるさと」は「故郷」だと思うのですが、近年は新聞の影響で「古里」が多くなっています。でも、辞書をみると「ふるさと」は「古里・故里・故郷」となっていて、どれでもよさそうに見えます。

 では、なぜ「ふるさと」は新聞では「古里」と表記されるのでしょうか。新聞の表記は常用漢字表内の漢字(表内字)を音訓の範囲内(表内音訓)で表記すると決めています。「故郷」の字はいずれも表内字ですから使用に問題はありませんが、「ふるさと」と読むと、表内音訓での表記から外れてしまいます。ほかに漢字表の付表で、「父さん」や「息子」などのように当て字や熟字訓など特に使用することが認められているものもありますが、その中でも故郷を「ふるさと」と読むことを認めていません。従って、あくまで故郷は「こきょう」なのです。

 1914(大正3)年の『尋常小学唱歌6』に収録されたのが高野辰之作詞、岡野貞一作曲の文部省唱歌「故郷」です。この曲のタイトルは、「故郷」と書いて「ふるさと」と読みます。そのためか、私には「ふるさと」は「故郷」で、「古里」ではないのです。でも、上記の理由から新聞は「ふるさと」を「故郷」とは書かず、「古里」と書きます。

 常用漢字表では「故」に「ふる」という読みが無く、「郷」にも「さと」という読みが無いため、「故郷」を「ふるさと」と読むのは、常用漢字表に従う限りできません。一方、「古」、「里」は、常用漢字表に「ふる」、「さと」の読みがあります。それゆえ、新聞では「ふるさと」は「古里」と書くようになったことがわかります。

 『日本国語大辞典』は平安時代から明治中期までに編まれた辞書の中から代表的なものを選んで、その辞書にある漢字表記を示しています。「故郷」の表記は室町時代中期に成立した『文明本節用集』や、江戸時代中期の『書言字考節用集』にあります。一方の「古里」の表記が現れるのは明治になってからです。

 常用漢字表に厳格に従い、認められていない読み方ができないなら、「為替」は使えず、「梅雨」は「つゆ」とは読めないことになります。他にも、「美味しい」、「景色」、「曲者」、「許嫁」、「従兄弟」、「意気地なし」、「脚気」、「牡蠣」など…。そして、「秋刀魚」も。

 そのためか、漢字表記をやめて、ひらがなの「ふるさと」に統一した使用例が「ふるさと」納税です。役所は総じてひらがなの「ふるさと」を使っているようです。

 

(11)「ふるさと」トリヴィア(3)

 信濃俳人となれば、小林一茶ですが、彼の「ふるさと」観の変遷は現代人にも通じるもので、庶民のふるさと観の典型例と言えます。

 一茶はまだ江戸にいた寛政6年にふるさとへの熱き思いを表現しています。

 

 初夢に 古里(故郷)を見て 涙かな

 

 一茶48歳の文化7年にはふるさとの身内との諍いにすっかり参ってしまいます。

 

 故郷(古里)や よるもさわるも 茨の花

 

 でも、2年後の文化9年には観念し、大悟した様子が窺えます。

 

 是がまあ つひの栖か 雪五尺

 

これら三句から、一茶のふるさと観が伝わってきます。ふるさとはあこがれの地であり、面倒ないざこざだらけの地であり、そして終には骨を埋める終焉の地でもあるのです。

私たちが抱く「ふるさと」観に含まれる基本的な三つの特徴を一茶は経年的に見事に表現しています。夢、現実、諦念とも呼べるようなふるさとへの思い入れが表現され、正に生活の中の「ふるさと」が巧みに切り取られているのです。

*一茶の句でも「故郷」、「古里」の表記のどちらも使われているようです。俳句では「ふるさと」、「古里」、「故郷」のどれもが使われています。

 

(12)「ふるさと」トリヴィア(4)

 「ふるさと」トリヴィア(3)で、一茶とふるさとの関わりを次の三句で示しました。

 

初夢に 古里(故郷)を見て 涙かな

故郷(古里)や よるもさわるも 茨の花

是がまあ つひの栖か 雪五尺

 

  信濃国柏原は今の信濃町柏原ですが、そこに生まれた一茶はいつも孤独でした。3歳で実母を失い、代わりにやってきた継母とはうまくいかず、15歳で柏原の生家を追われ、江戸で奉公することになります。一茶は52歳になって、ようやく妻や子どもと一緒に暮らすことになりました。でも、その幸せもつかのま、あいつぐ妻子との死別により、独りぼっちになります。ふるさとからも家からも閉め出された形の一茶の孤独は、現代人のもつ孤独とよく似ています。

柏原は門徒の多い土地柄でした。一茶の家も代々真宗門徒で、両親も敬虔な門徒でした。親鸞が説く「自然法爾(じねんほうに)」は「あるがまま」を肯定することで、人為を超えた阿弥陀仏の力に一切の救済を任せ、他力本願で生きていくことです。門徒としての一茶の句には親鸞の他力本願の教えが色濃く滲み出ています。

一茶の菩提寺は明専寺で、毎年11月19日には一茶忌が開かれ、昭和50(1975)年には境内に「我と来て遊べや親のない雀」の句碑が建立されました。

 

(13)私の「ふるさと」

 多くの人が哲学は妄想だと思っているなら、これからの話は妄想でしかありません。

 異郷を知らない人には「ふるさと」は存在しないのでしょうか。アイデア、観念だけの異郷は今風に表現すれば、情報としての異郷、あるいは異郷の情報と言うことになるでしょう。異郷についての情報の中には異郷の存在が当然含まれ、自分のいる「ふるさと」と同じように異郷があることが含まれています。確かな情報を私たちは知識と呼びますが、異郷の知識は異郷の存在を証明しています。それゆえ、異郷情報によって人は「ふるさと」を疑似体験できます。それは「ふるさと」を異郷の一つとして想像することでもあります。子供が成長して自らを意識し、その存在を自覚し始めると、子供は世界観や人生観に目覚めます。「ふるさと」の情報や知識だけでなく、脱ふるさと化された普遍的な情報や知識にも接することになります。

 人が自意識をもつと、意識の時間化、空間化が行われます。時間化は過去、現在、未来と世界を分割化しますが、空間化はふるさととそれ以外の地域に分割化されます。「いま、ここ」で表現される現在の居場所を座標軸にして世界が表現されます。時空の違いを具体的に考えてみましょう。

 情報や知識はふるさと化と脱ふるさと化を共に可能にする装置、方法です。それはどのように使われ、認識を可能にするのでしょうか。

 「私はいまここにいる。」という文は偽になるでしょうか。私自身がこの文を発話した場合、それを否定することができません。とはいえ、私がこの文を発話しない、発話できない場合を簡単に想像できます。この文は発言者にとっていつも真になります。しかし、「君はいまここにいない。」と私は簡単に言うことができます。さらに、私は「私はいまここにいないと想像できる。」ということもできます。さらに、「私がいま別の場所にいると仮定しよう。」、「私は君で、いまここにいないとしてみよう。」と発言することもできます。私は知識、想像力、教育、情報などによって上の各文が真であるような世界を考えることができます。

 ふるさとを一歩も出なくても、カントのように異郷や他世界を存分に考えることができます。それを可能にしているのが私たちのもつ知識とそれを認識する能力です。認識し、考える能力によって私は「ふるさと」をもつことになるのです。これが私の「ふるさと」所有の経緯です。

 

(14)「ふるさと」の使い途

 「生命地域」となれば、妙高市のスローガンを思い浮かべるのですが、その現在の定義のようなものを探ると、「A bioregion is a land and water territory whose limits are defined not by political boundaries, but by the geographical limits of human communities and ecological systems.」とでも表現できそうです。「生命地域」や「生命圏」は20世紀の後半に登場した概念で、政治経済活動を生態学的枠組みの中で展開する姿勢を表現したものでした。これが現在の環境保護や温暖化防止の運動に繋がっています。その意味で、とても西欧的な考えであることがわかります。ですから、このような概念を日本の地域社会、特に農山村地域にそのまま適用するには相当な工夫が必要だということになります。

 そこで20世紀前半の知的状況にまで戻ってみると、『風土 人間学的考察』(和辻哲郎岩波書店、1935)に行き着きます。利辻はこの著作で人間存在の時間性と空間性、歴史性と風土性を機軸とする人間存在論を提示しました。留学先で学んだハイデッカーの『存在と時間』が意識の時間を重視したのに対し、空間の見直しを計ったのが和辻でした。「間柄」と「風土」との関係が曖昧だと批判されてきたのですが、その鍵はこれまで何度も言及してきた「ふるさと」の中に詰まっているというのが私の主張です。時間と空間、歴史と風土が分かれる前の状態が「ふるさと」であり、そこに私たちの出発点があるのです。

 時間的に、気候圏(風土)、生命圏(地域)と続けば、21世紀は情報圏となることが簡単にわかります。さらに、より人為的な政治圏、経済圏、そして文化圏などが共存しています。生命圏を基本にした地域は風土の中の生命地域なのですが、本来の意味は厳しい自然環境の中で生命が活動できる地域のことです。ですから、モンスーン地域のような生命活動が豊かな地域では歴史、経済、政治によって地域が限定されてきたのです。特定地域だけを限定するには和辻の風土や間柄では決まりません。そのような中で、間柄を特定する「ふるさと」による地域の決定は可能です。「ふるさと」は和辻風には歴史的な風土の断片です。

 

(15)刷り込まれる「ふるさと」

 「ふるさと」は誰もが刷り込まれる(すりこみ、imprinting)子供時代の記憶だというのはここでの私の仮説に過ぎませんが、刷り込み自体は動物行動学では周知の概念です。何を刷り込むかはどちらも同じで、周りの環境に大きく依存しています。「ふるさと刷り込み説」は「文化的な刷り込み学習」と言ってもいいでしょう。通常の学習が成立するためには、特に知能が未発達の動物では、繰り返しと一定の時間の持続が必要だと考えられていますが、動物行動学の刷り込みはほんの一瞬でその記憶が成立し、それが持続します。ここで私が考える刷り込みは「拡大された刷り込み」で、学習と刷り込みのミックスされたものと言ってもいいでしょう。ですから、瞬時に刷り込まれるというより、持続的に刷り込みが重ねられて、重層化され、蓄積していくのです。つまり、私の考える「刷り込み学習」は本能的な学習である点では刷り込みであり、ある程度持続される刷り込みとして学習なのです。

 そのため、私たちが意識的に関わることによって、刷り込む内容をある程度はコントロールできることになります。祖先たち、血縁、地縁の人々が自分たちの住む環境をどのようなものと考え、その中の何を後世に伝えていくかが刷り込みの内容を左右し、決定してきたのです。それらは多くの場合、慣習や習俗として伝えられてきたものが主なものとなりますが、「何を遺産として残すのか」が決まれば、「何を刷り込むか」が決まり、「ふるさと」が個々人に刷り込まれることになります。それは俯瞰的に眺めれば、意図的につくられた「ふるさと」なのですが、それこそが伝統であり、遺産なのです。

 風土は樹木のようなもので、動いていないように見えながら、気候の変化に応じて動き、生きています。時間と空間、動物と植物という対立項は運動と静止のようなものと考えがちですが、それは語り方の方便に過ぎなく、対立するようなものではないのです。そのようなものが混在しながら、それぞれの「ふるさと」が記憶され、異郷とは一線を画す故郷がふるさと化され、脱ふるさと化と共に続くのです。

 刷り込まれた風景や風土、家族、血縁、地縁の間柄の人々、さらには家畜やペットなどが刷り込まれて記憶され、各自の「ふるさと」が出来上がります。ですから、その「ふるさと」は知識として正しい、倫理的に適正だというものではなく、時代的、文化的な束縛を受けていて、実際は誤っている場合が多いのです。その点では「ふるさと」は正しい知識ではなく、とても個人的なものなのです。むろん、その後の知識や情報によって修正は続けられますが、「ふるさと」自体は残り続けるのです。偏見に満ちているのが私たちの「ふるさと」であり、それゆえ、ふるさとを嫌悪したり、偏愛したりできる訳です。

 私の「ふるさと」記憶の中にあって、刷り込みによる訂正不可能なものは何なのか、それを突き止めるのが次の課題です。

 

(16)学習を多分に含む刷り込み

 私たちそれぞれの「ふるさと」がもつ独特の特徴は「帰属」と「所有」にあります。自分がどこに帰属してきた、どこのメンバーだったかを辿るなら、最初の帰属が家族、家であり、その次が「ふるさと」なのです。私の「ふるさと」は私が帰属する「ふるさと」なのです。そして、私が記憶として所有する最初の生活世界が私の「ふるさと」であり、その風土、文化、生活を私たちは体験したのです。つまり、私が記憶の中で帰属し、記憶として所有するのが「ふるさと」なのです。また、「ふるさと」は拡大された家族です。そして、「ふるさと」という記憶の中身は私の初体験が凝縮されて集まり、それらが積み重なったものなのです。

 

 「ふるさと」記憶の重要な構成要素の一つが「幼馴染」です。それは親、兄弟、血縁者と違う初めての他人でありながら、私と親しくなった間柄の友人たちなのです。「ふるさと」の自然環境、社会・文化環境と並んで、「ふるさと」を構成する欠かせない要素が幼馴染なのです。

 動物の場合の刷り込みは修正不可能なものがほとんどですが、人の学習はいつでも修正、訂正が可能です。学習は知識の学習であり、知識は修正可能だからです。では、「ふるさと」の何が修正可能で、何が修正不可能なのでしょうか。知識としての「ふるさと」は修正可能なのですが、私の体験記憶としての「ふるさと」はその体験を忘れない限り、修正することはできません。

 では、なぜ体験記憶は修正不可能なのでしょうか。誤った記憶は可能ですし、その誤りを訂正して正しい記憶に直すことはできるのではないでしょうか。私たちは歴史の訂正を何度もやってきました。でも、それができるのは記録であって、記録の訂正はいつでも可能なのですが、個々の記憶については記憶への解釈変更はできますが、記憶自体を変更することはできません。

 私の初めての生活世界は月並みですが、家族の世界です。そして、その次が家族の世界を含んだ「ふるさと」世界です。私が子供時代の記憶として思い出すのはこの「ふるさと」の世界です。ですから、そこには私の初めての体験が凝縮されています。それが私の「ふるさと」の記憶です。

 初体験には個々の体験だけでなく、初めての習慣化された体験も含まれます。私たちの日常体験はすぐに習慣化されます。学習によって適切な行動パターンの技術習得が行われ、体系化され始めます。それらの獲得技術の集合も「ふるさと」記憶を増やすことに貢献しています。

 こうして、私たちはいとも簡単に「故郷と異郷」を区別できるようになります。

 

(17)私のたくらみ

 私たちが自らの「ふるさと」を刷り込むかのように学習し、それが記憶として特別長く残ることを述べてきました。誰も故郷と異郷の違いに敏感なのはこのような刷り込み的な記憶の効果だと考えることができます。各地の風土や環境を知ることと、自らの「ふるさと」の風土や環境を思い出すことは、従って、「ふるさと」を刷り込まれた人には違ったことなのです。知識としての風土、環境と、私的で感情的なふるさとの違いを私たちはほぼ直感的に理解しています。

 すると、その違いを利用したたくらみ(悪だくみ)が浮かんできます。それは子供たちの記憶をコントロールし、彼らを無意識のうちに洗脳してしまおうという教育的なたくらみです。「ふるさと」が子供時代に刷り込まれる如くに記憶した生活世界のことだとすれば、記憶内容を意図的にコントロールして、大人たちに都合の良い「ふるさと」を作り出そうという訳です。これはとんでもない悪事に見えないこともないのですが、教育はそもそも知的なコントロールだと考えるならば、「ふるさと」像の僅かなコントロール、統制だということですから、普通の教育と似た程度の罪だということになります。

 子供の生活世界の幾つかの事柄を操作し、大人たちの未来への夢をそこに埋め込もうというのが私(たち)のたくらみです。それにはそれぞれの地域の伝統文化、宗教遺産、産業等の残したい事柄を正しく子供たちに教育することが第一歩になります。子供たちに対して、胸を張って教育するために必要なのは、正しい知識、情報をわかりやすく子供たちに体験させることです。間違った知識や情報は伝えられるべきではありません。ですから、故郷の持つ悪い側面、不都合な特徴もあえてそのまま伝えることが必要となります。あるいは、敗れた戦争や試合、災害や事件も忘れてはなりません。

 未来を担うのは子供たちですから、その子供たちに対して何かをたくらむのは人の本能であり、親の宿命です。たくらみは政治家たちだけでなく、教育者たちも子供への企てを表明すべきなのです。そして、その共通のたくらみは「子供たちをふるさと好きにする」ことに尽きます。そのための第一歩はふるさとを正しく知り、伝えることです。つまり、ふるさとの歴史と文化を知り、それをそのまま伝えることです。

 子供たちにどんなふるさとを記憶させたいか。そのために、まずは子供たちに正しい知識、情報を伝えることです。その正しい知識、情報の中で、何を取捨選択し、どんな優先順位をつけるか、それこそが私のわるだくみ、いや大人のわるだくみなのです。それは確かにわるだくみですが、楽しく、有意味なわるだくみです。

 私の場合のふるさとは(現妙高市の)小出雲の記憶ですから、小出雲のどんな歴史、文化を子供たちに記憶させたいかということになります。妙高市妙高市の各地域など、それぞれのふるさと記憶、ふるさと現状の取捨選択は大人にとっても(億劫がりの私にとっても)楽しい作業の筈です。

 

(18)私のたくらみ(2)

 熊坂長範や児雷也伝説に何度もしつこく言及したのも、妙高市周辺の伝説や昔話を掘り起こし、注意を喚起することにありました。そこでの私のたくらみは、子供たちにそのような昔話だけでなく、自分のふるさとの歴史や文化を詳しく伝えることにありました。

 熊坂長範も児雷也も能や歌舞伎という芸能を通じて「脱ふるさと化」され、全国に知られるようになりました。それをもう一度「ふるさと化」して、子供たちそれぞれのふるさと記憶の中に正しく記憶してほしいというのが私のたくらみと言うことになります。子供のふるさと形成は刷り込みに似た学習だと昨日述べました。動物行動学者のローレンツはハイイロガンのヒナを使ってガチョウを親だと思わせるよう刷り込みました。それと同じように、子供たちに正しい(と親や大人が認識した)ふるさとの情報や知識を学習させようという訳です。そもそも学習は子供に意図的に情報や知識を与えることですから、子供をコントロールするという意味では、学習は人類の子供コントロールというたくらみなのです。

 神話から伝説へ、さらには昔話へと伝承されてきた歴史は邪馬台国の所在などの謎が多くても、今の妙高の成立に繋がっています。神話の奴奈川姫から九頭龍伝説、熊坂長範や児雷也の昔話へと繋がり、当然ながら事実としての歴史が現在のふるさとまで続いてきました。それらが、例えば、西脇順三郎や相馬御風の作品の中で「ふるさと」として垣間見ることができます。それらも既に何度も述べました。彼らの作品には子供時代に刻印され、刷り込まれた記憶が蘇り、再認識される様が描かれています。

 子供たちに自然な仕方でふるさとを学習してもらいたい。その学習内容は親や住民たちの希望や魂胆を中心にして、ふるさとの過去や現在を正しく伝えることを第一にします。当然そこには未来のふるさとを子供たち自身につくってもらうヒントになるような情報、知識をしっかり組み込む必要があります。これが私のたくらみということで、せんじ詰めれば、情報、知識の操作によって子供たちをコントロールし、各自にふるさとを持ってもらおうという、至極まっとうな教育的試みだと思っています。

 私がふるさと学習について刺激を受けた一つが、斐太北小学校区学校運営協議会(代表吉住安夫)による歴史副読本の作成でした。その副読本のタイトルは『ふるさとの歩み わたしたちの斐太北』で、2021年3月に刊行されました。詳しい年表がついた100ページの本には多くの画像や図表が組み込まれています。斐太北小学校の子供たちのふるさとを学習によってつくり出そうという具体的な試みです。このような試みは歴史だけではなく、他の分野でも、そして当然ながら他の小中学校でもなされている筈です。それらをまとめて、妙高市全体でどのようなふるさと像を子供たちに呈示しているのでしょうか。

 妙高市の色んなビジョンが何ページにもわたって喧伝されるなかで、私の実に簡単なたくらみ、つまり子供たちに持ってほしい「ふるさと」は一向に姿を見せないのです。

*「妙高市」は行政地域ですから、頸城郡がふるさとのより適切な区域かも知れません。

 

(19)私のたくらみ(3)

 私の「ふるさと」に登場する二つのものとなれば、照光寺と加茂神社です。照光寺は家からすぐのところにある寺で、その境内は近所の子供たちの遊び場になっていました。北国街道の坂を上ったところにある加茂さんは時々行く程度でしたが、高くて太い杉の木に囲まれていて、境内の空気は子供の心を緊張させるものでした。子供の私には照光寺も加茂さんもどのような歴史、由来をもつのかまるで知りませんでした。私だけでなく、近所の子供たちはみな照光寺も加茂さんもよく知っていたのですが、その知り方は大人の知り方、知識とは違っていて、正に子供の生活世界での照光寺、加茂さんでした。

 子供たちが知っていた照光寺や加茂さんは私がこれまで述べてきた「刷り込まれた学習」による知識で、生活世界で必要な視覚像を基本とする感覚的な知識です。大人が言葉を通じて学んだ知識ではなく、名前以外は自らの経験を通じて知ったものが子供たちの知識です。「鐘楼」、「本堂」、「浄土真宗」、「本殿」、「絵馬」などの語彙やその意味を知らなくても、遊び場として必要なものは誰もが知っていて、映像のような直感的知識として完全に通用していました。

 「親を知る」というより、「親を知っている」、「ふるさとを知る」より「ふるさとを知っている」と言う方が適切なのが親やふるさとについての私たちの知り様です。それと同じように子供たちは照光寺や加茂さんを知っていたのです。「偉人を知る」は「偉人を知っている」とほぼ同じなのですが、親やふるさと、照光寺や加茂さんの場合は違います。子供は遊び場を知っているのですが、どうやって知ったかなど一向に気にしないのです。まさに直感的、本能的に刷り込まれたかのように知っているのです。

 ここでちょっと飛躍してみます。「自分を知っている」と「ふるさとを知っている」を比べてみて下さい。それらは相当によく似ているのです。「地球を知る」ことと「自分を知っている」ことは確かに違います。でも、その中間にあって自分を知っているのに似ているのがふるさとを知っていることです。誤解を恐れずに言えば、子供の私が自分を知っていたように照光寺や加茂さんを知っていたのです。誰もが自分を知っていると思っていますが、「自分自身を知る」と表現されると、妙に哲学的に思えて、つい構えてしまうのです。

 それがふるさとについての知識のあり様で、自分についての記憶の一部としてのふるさとなのです。「私のふるさと」、「あなたのふるさと」、「あなたと私のふるさと」と所有名詞で表現されるのが「ふるさとを知っている」の特徴です。それは「私の町」、「私の妙高」と言う場合とよく似た使い方なのです。

 「ふるさとを知る」には学習し、体系的に知識を整理しなければなりませんが、「自分の知っているふるさと」は自分の過去の記憶です。これら二つがどのようにうまく結び合わされ、統合されるかがふるさとの未来を考える上でとても重要だと考えるのは私だけではない筈です。二つが上手く統合されれば、それを子供たちに刷り込むという私のたくらみに寄与することになります。

 

(20)君は自分のふるさとをどのように知っているのか?

 自分の「ふるさと」を知ろうと思うと、刷り込まれている記憶は大半が現象であって、それについての正確な知識は刷り込まれてはおらず、後知恵に過ぎないことに気づくのです。では、刷り込まれたものをきちんと知るには何が必要なのでしょうか。体験した記憶以外にどのような知り方があるのでしょうか。

 「暗黙知(tacit(implicit)knowledge)」と呼ばれる知識は言葉を使って文章によって表現される形式的な知識とは違います。形式的な知識の典型例は論理システムや数学理論で、経験的な検証を一切必要としない知識です。それに比べると、いわゆる科学理論はどれも経験的内容を含み、それが正しいことを験証するには実験や観察といった経験が必要になります。そして、私たちの経験には必ず暗黙知がなにがしか含まれています。ですから、科学的な知識は暗黙知形式知の両方から成り立っていることになります。

 子供たちに同じ経験、訓練をさせることが伝統の保存のもっとも単純なやり方です。それは生活記憶の再経験であり、しかも組織的、系統的な訓練です。その生活記憶は好奇心の対象というより、あるがままに受け入れ、名前や知識を知る前に対象や事象をそのまま憶えることから成り立っています。それは感覚的な知り方で、その結果として得られるものの一つが暗黙知ということになります。

 私は自分のふるさとをどのような仕方で知っているのでしょうか。私が子供の頃に経験し、記憶しているものが私の知っている、憶えているふるさとで、それを私は「私のふるさと」と呼んできました。これは私だけでなく、他の誰もが同じように考えていることではないでしょうか。でも、私のようにふるさとを離れ、他の土地で暮らしてきたのではなく、ずっと生まれた場所に暮らし続けている人にとっては、ふるさとは記憶の中にではなく、実際に生活している場所です。

 そうなると、そんな人たちにとっては唱歌の「故郷(ふるさと)」の歌詞はどのように響くのでしょうか。「故郷」の歌詞は追憶のふるさとでしかありませんから、住み続けている人はどのような気持ちでこの歌詞を理解するのでしょうか。私にはこの歌詞が醸成した「ふるさと」像はふるさとを離れた人たちによる一方的なふるさと記憶にしか思えないのです。

 

兎追ひし彼の山 小鮒釣りし彼の川 夢は今も巡りて 忘れ難き故郷

如何にいます父母 恙無しや友がき 雨に風につけても 思ひ出づる故郷

志を果して いつの日にか歸らん 山は青き故郷 水は清き故郷

 

では、ふるさとに住み続ける人のふるさと記憶はどのような内容で、私のような異郷に住む人のふるさと記憶と何が違っているのでしょうか。

 

(21)「ふるさと」に拘ることへの疑念

 私はこれまで私の「ふるさと」について述べてきました。生まれ故郷を離れることによって私自身によって意識され、私の記憶をもとに観念的に生み出されたのが私の「ふるさと」です。「田舎と都会」と「ふるさとと都会」との大きな違いは一体何なのでしょうか。田舎や地方が即「ふるさと」では決してないというのが私の世代の多くの人たちの考えだと思われます。

 私の世代より前、私の世代より後と比べると、私の世代は世間で団塊の世代と呼ばれてきた少々特異な世代です。私の「ふるさと」は唱歌「故郷」や石川啄木の和歌が多くの人によって共有され、それによって大衆化され、日本中に広がったものです。それは都会という異郷で追憶され、懐かしがられ、郷愁を誘う「ふるさと」です。私の子供や孫の世代は親の私の「ふるさと」を発見し、概念化して捉えるのかも知れません。かつて集団就職が盛んだった頃、つまり1955年頃から1975年頃までの農村部から都会への激しい人口移動の時期を通じて醸成された「ふるさと」が私の世代の「ふるさと」なのです。

 私は奈良時代から明治時代までの「ふるさと」を当然知らないのですが、内心では私の「ふるさと」はどの時代にもなかったように思えてならないのです。私と共通の体験は国替や江戸詰めで生まれ故郷を離れた武士たちが自分の生まれた場所を懐かしく思い出すという体験に見出すことができます。でも、他の大多数の人たちは異郷への移動を禁じられていましたから、追憶する「ふるさと」はなかった筈なのです。私の「ふるさと」は存在したとしても、極めて少数の体験に過ぎなかったのです。

 私の世代をN世代とすれば、(N-1)世代や(N+1)世代についてはどんな「ふるさと」をもっているか部分的には推測できます。でも、それが(N+n)世代となれば、見当さえつきません。彼らがどんな「ふるさと」をもっているのか私にはわかりません。また、大昔の人たちがどんな「ふるさと」をもっていたか、子孫たちの「ふるさと」がどうなるのか、まるでわからないのです。そもそも「ふるさと」は消えてなくなっているかも知れません。「ふるさと」の喪失とは無関係に生れ故郷が再生され、それによって新しい「ふるさと」が生まれるかも知れません。

 私の「ふるさと」を語るのに相応しいのは物語の形式によってであり、理論や事実をもってしてはうまく語ることができません。その文学的な語りによって、誰もが自分の「ふるさと」にこだわり、無視できないと感じるのではないでしょうか。田舎と都会の関係は、「ふるさと」と異郷の関係とは違うと私は思っているのですが、それは私の世代だけの特別な思い込みに過ぎないのか、それとも世代とは無関係に違うと言えるか、今の私にはよくわかりません。

 これまでの話から私の「ふるさと」は私の世代に独特のものなのではないでしょうか。私の世代から離れた世代には存在せず、僅かにあったとしても無視して構わないものなのではないでしょうか(たとえ少数でも、彼らの「ふるさと」は私のそれと同じだと私は思っています)。

 ですから、地方や田舎、あるいは人口が疎で、農業、林業、漁業が主になっている地域と都会との関係は「ふるさと」を関与させずに扱うのが正しいのかも知れません。しかし、私のような世代にはディジタル関連の事柄に馴染めず、自らをアナログ人間と自虐的に捉えるように、「ふるさと」に拘り、田舎や地方を都会と同じレベルで比較考量できないのかも知れません。その意味で、私はなんとも厄介な世代に属しているのです。

 

(22)揺れ動く我が「ふるさと」:正月五句

妙高が 咄嗟に浮かぶ 雪の富士

ふるさとの 白き雪肌 なまめいて

ふるさとを 依怙贔屓して えちご富士

古き良き ふるさとなどと 誰か言う

ふるさとの 正体示す 空き家かな

妙高、えちご富士はいずれも妙高山

 

最後に:

 現在の私の関心は「山椒大(太)夫」です。森鷗外説経節瞽女唄などが絡み合い、越後の物語が生まれ、今はそれが消え去ろうとしています。いずれ報告できる筈です。

 

**これまで述べてきたものをまとめたものです。