君は自分のふるさとをどのように知っているのか?

 自分の「ふるさと」を知ろうと思うと、刷り込まれている記憶は大半が現象であって、それについての正確な知識は刷り込まれてはおらず、後知恵に過ぎないことに気づくのです。では、刷り込まれたものをきちんと知るには何が必要なのでしょうか。体験した記憶以外にどのような知り方があるのでしょうか。

 「暗黙知(tacit(implicit)knowledge)」と呼ばれる知識は言葉を使って文章によって表現される形式的な知識とは違います。形式的な知識の典型例は論理システムや数学理論で、経験的な検証を一切必要としない知識です。それに比べると、いわゆる科学理論はどれも経験的内容を含み、それが正しいことを験証するには実験や観察といった経験が必要になります。そして、私たちの経験には必ず暗黙知がなにがしか含まれています。ですから、科学的な知識は暗黙知形式知の両方から成り立っていることになります。

 子供たちに同じ経験、訓練をさせることが伝統の保存のもっとも単純なやり方です。それは生活記憶の再経験であり、しかも組織的、系統的な訓練です。その生活記憶は好奇心の対象というより、あるがままに受け入れ、名前や知識を知る前に対象や事象をそのまま憶えることから成り立っています。それは感覚的な知り方で、その結果として得られるものの一つが暗黙知ということになります。

 私は自分のふるさとをどのような仕方で知っているのでしょうか。私が子供の頃に経験し、記憶しているものが私の知っている、憶えているふるさとで、それを私は「私のふるさと」と呼んできました。これは私だけでなく、他の誰もが同じように考えていることではないでしょうか。でも、私のようにふるさとを離れ、他の土地で暮らしてきたのではなく、ずっと生まれた場所に暮らし続けている人にとっては、ふるさとは記憶の中にではなく、実際に生活している場所です。

 そうなると、そんな人たちにとっては唱歌の「故郷(ふるさと)」の歌詞はどのように響くのでしょうか。「故郷」の歌詞は追憶のふるさとでしかありませんから、住み続けている人はどのような気持ちでこの歌詞を理解するのでしょうか。私にはこの歌詞が醸成した「ふるさと」像はふるさとを離れた人たちによる一方的なふるさと記憶にしか思えないのです。

 

兎追ひし彼の山 小鮒釣りし彼の川 夢は今も巡りて 忘れ難き故郷

如何にいます父母 恙無しや友がき 雨に風につけても 思ひ出づる故郷

志を果して いつの日にか歸らん 山は青き故郷 水は清き故郷

 

 では、ふるさとに住み続ける人のふるさと記憶はどのような内容で、私のような異郷に住む人のふるさと記憶と何が違っているのでしょうか。