相馬御風の文学碑から

 糸魚川歴史民俗資料館(相馬御風記念館)傍に御風の文学碑があり、そこには『還元録』の一節が刻まれています。「私は今その心の故郷へと帰って行くのである そして全く従順なる心を以て そこの生活の味はひを味はひ それによって失われつつあった私の心の統一を取り返さうと思ふのである
    阿字の子が 阿字のふるさと 立ち出でて
     また立ちかへる 阿字のふるさと
幼い頃誰から教はったと云ふ事なしに教はったおぼえのある此のやうな古歌を 再び口ずさみつつ私はその私みづからの心の故郷へと帰って行くのである これまでのかなりに永い思想的放浪生活の間のさまざまの経験を幻の如く思ひ浮べながら…」

 『還元録』でこのように書いて御風は故郷糸魚川へ戻るのですが、その理由を探ってみましょう。日露戦後1910-20年にかけて、多くの帰農生活者たちが生まれました。徳富蘆花に始まり、以後、江渡秋嶺、橘孝三郎武者小路実篤中里介山、木村荘太、石川三四郎加藤一夫、鑓田研ーといった知識人たちが、様々な仕方で次々に帰農していったのです。御風もその一人と数えられています。トルストイ主義は利己的生活を否定し、人間の真の生活の実現を目指すものでした。特に、トルストイがヤスナヤ・ポリヤナで実践していた帰農生活が彼らの理想となっていました。実際、御風はトルストイの作品『アンナ・カレニア』(1913)、『性慾論』(1914)を訳し、『還元録』(1916)を残して帰郷します。

 さて、刻まれている歌は弘法大師空海が弟子の智泉が亡くなった時に詠んだものと伝えられています。御風は自らの心身の苦悩について真言宗の教えにも頼っていました。

阿字の子が 阿字のふるさと 立出でて また立返る 阿字のふるさと
あじのこが あじのふるさと たちいでて またたちかえる あじのふるさと)

(この世は、かりそめの宿みたいなもの、帰るべき場所はあなたの心の中です)

「阿字」とは、真言宗の教主大日如来を指し、大日如来は「森羅万象」、「宇宙」、「いのちが循環するそのもの」を象徴する仏です。ですから、大日如来の子どもたちが、大日如来の故郷からやってきて、地球上で生命をもつ存在として生活し、役目が終わると、また大日如来の故郷に戻っていくという密教の生命観をこの歌は表現しています。密教では大日如来は宇宙であり、宇宙の真理であり、すべての命あるものは母なる大日如来から生まれ、釈迦如来も含めて他の仏はすべて大日如来の化身なのです。

 このように見てくると、トルストイの思想と真言密教の教えが帰郷を促し、故郷でこそ真の歌が詠め、文学的な実践が可能になると御風は考えたと言えるのではないでしょうか。