刷り込まれる「ふるさと」

 「ふるさと」は誰もが刷り込まれる(すりこみ、imprinting)子供時代の記憶だというのはここでの私の仮説に過ぎませんが、刷り込み自体は動物行動学では周知の概念です。何を刷り込むかはどちらも同じで、周りの環境に大きく依存しています。「ふるさと刷り込み説」は「文化的な刷り込み学習」と言ってもいいでしょう。通常の学習が成立するためには、特に知能が未発達の動物では、繰り返しと一定の時間の持続が必要だと考えられていますが、動物行動学の刷り込みはほんの一瞬でその記憶が成立し、それが持続します。ここで私が考える刷り込みは「拡大された刷り込み」で、学習と刷り込みのミックスされたものと言ってもいいでしょう。ですから、瞬時に刷り込まれるというより、持続的に刷り込みが重ねられて、重層化され、蓄積していくのです。つまり、私の考える「刷り込み学習」は本能的な学習である点では刷り込みであり、ある程度持続される刷り込みとして学習なのです。

 そのため、私たちが意識的に関わることによって、刷り込む内容をある程度はコントロールできることになります。祖先たち、血縁、地縁の人々が自分たちの住む環境をどのようなものと考え、その中の何を後世に伝えていくかが刷り込みの内容を左右し、決定してきたのです。それらは多くの場合、慣習や習俗として伝えられてきたものが主なものとなりますが、「何を遺産として残すのか」が決まれば、「何を刷り込むか」が決まり、「ふるさと」が個々人に刷り込まれることになります。それは俯瞰的に眺めれば、意図的につくられた「ふるさと」なのですが、それこそが伝統であり、遺産なのです。

 風土は樹木のようなもので、動いていないように見えながら、気候の変化に応じて動き、生きています。時間と空間、動物と植物という対立項は運動と静止のようなものと考えがちですが、それは語り方の方便に過ぎなく、対立するようなものではないのです。そのようなものが混在しながら、それぞれの「ふるさと」が記憶され、異郷とは一線を画す故郷がふるさと化され、脱ふるさと化と共に続くのです。

 刷り込まれた風景や風土、家族、血縁、地縁の間柄の人々、さらには家畜やペットなどが刷り込まれて記憶され、各自の「ふるさと」が出来上がります。ですから、その「ふるさと」は知識として正しい、倫理的に適正だというものではなく、時代的、文化的な束縛を受けていて、実際は誤っている場合が多いのです。その点では「ふるさと」は正しい知識ではなく、とても個人的なものなのです。むろん、その後の知識や情報によって修正は続けられますが、「ふるさと」自体は残り続けるのです。偏見に満ちているのが私たちの「ふるさと」であり、それゆえ、ふるさとを嫌悪したり、偏愛したりできる訳です。

 私の「ふるさと」記憶の中にあって、刷り込みによる訂正不可能なものは何なのか、それを突き止めるのが次の課題です。