A君の漠然とした疑問

 A君は4月から高校生。ウクライナへのロシア軍の侵攻のニュースを聞きながら、両国が共にロシア正教会の国だと知りました。正教会のイコンはイエス・キリスト、聖人、天使、聖書の記載、教会史上の出来事を画いた画像です。A君は正教会の立像を見たことがありませんが、それはイコンが板絵、フレスコ画、写本挿絵、モザイク画などだけだからです。でも、カトリック教会、仏教寺院には立像や座像があり、平面と立体の両方が見られます。イスラム教の礼拝堂(=モスク)の内部には、イスラム教の偶像崇拝の徹底排除の教えに従い、神や天使や預言者・聖者の像(偶像)は一切なく、装飾は幾何学模様だけです。

 それらを知ったA君は、信仰をもつ場合、つまり、神や仏を信じる場合、何を礼拝するのか、自分なりに考えてみました。イスラム教は偶像を排した信仰と言われますが、礼拝の時に何を拝んでいるのでしょうか。偶像は確かにないのですが、礼拝するモスクがあり、礼拝の形式も決まっていて、それらが準偶像のように思えてならないというのがA君の感想です。

 教義を信じ、守ることは言葉を通じて行われます。子供は親を信じ、信頼します。A君はそこに「信じる」ことの基本があるのではないかと考えました。人の場合、刷り込みのような学習は言語習得に似ていて、信じることが知ることとほぼ同じような役割を演じます。信仰もこれに似ていて、子供時代の刷り込みのようなものではないかとA君は推測しました。ただ、幼児の頃の宗教的刷り込みのないA君には偶像を一切排したブッダの仏教が純粋な修行のようなものとして最もわかりやすいものでした。

 自分の家にある神棚の中の「天照皇大神宮」という神札(しんさつ)と、仏壇の中の「南無阿弥陀仏」という六字名号(みょうごう)(親鸞以降)を一心に拝み、願い事をしていた祖母を思い出すと、A君の疑問は文字の力についての疑問で、神札や名号はイコンのような役割を果たしているというのが彼の答えで、仏像を拝むのと名号を拝むのは親鸞以来同じ宗教的な行為だと結論しました。

 「南無」は「帰依する」という意味ですから、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏に帰依する」という意味になります。ですから、念仏を唱えることは阿弥陀仏の像を拝むのと同じ行為ということになります。また、「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経法華経)に帰依する」という意味で、これは法華経を信じるのと同じことです。神社や寺院で配布される「お札」やお守りは鎌倉時代から存在しますが、これらは道教の符録を日本化して利用したのが始まりです。肝心の礼拝対象となる仏は阿弥陀如来大日如来、釈迦如来などで、宗派によって異なっています。この違いは一神教であれば、重大問題ですが、多神教の仏教では僅かな違いに過ぎないのかも知れません。

 もっと卑近な例となれば、作られたのが16世紀以降と意外に新しい道祖神で、単体で合掌する「単体道祖神」、寄り添う男女神の「双体道祖神」、文字碑型の「文字道祖神」、経が刻まれた「題目道祖神」、丸石や不思議な形の石を祀ったものなど、色んな種類があります。レリーフであれ、文字であれ、石がどのような形状であれ、礼拝の行為に大きな違いはない筈だというのがA君のとりあえずの解答です。