私のたくらみ

 私たちが自らの「ふるさと」を刷り込むかのように学習し、それが記憶として特別長く残ることを述べてきました。誰も故郷と異郷の違いに敏感なのはこのような刷り込み的な記憶の効果だと考えることができます。各地の風土や環境を知ることと、自らの「ふるさと」の風土や環境を思い出すことは、従って、「ふるさと」を刷り込まれた人には違ったことなのです。知識としての風土、環境と、私的で感情的なふるさとの違いを私たちはほぼ直感的に理解しています。

 すると、その違いを利用したたくらみ(悪だくみ)が浮かんできます。それは子供たちの記憶をコントロールし、彼らを無意識のうちに洗脳してしまおうという教育的なたくらみです。「ふるさと」が子供時代に刷り込まれる如くに記憶した生活世界のことだとすれば、記憶内容を意図的にコントロールして、大人たちに都合の良い「ふるさと」を作り出そうという訳です。これはとんでもない悪事に見えないこともないのですが、教育はそもそも知的なコントロールだと考えるならば、「ふるさと」像の僅かなコントロール、統制だということですから、普通の教育と似た程度の罪だということになります。

 子供の生活世界の幾つかの事柄を操作し、大人たちの未来への夢をそこに埋め込もうというのが私(たち)のたくらみです。それにはそれぞれの地域の伝統文化、宗教遺産、産業等の残したい事柄を正しく子供たちに教育することが第一歩になります。子供たちに対して、胸を張って教育するために必要なのは、正しい知識、情報をわかりやすく子供たちに体験させることです。間違った知識や情報は伝えられるべきではありません。ですから、故郷の持つ悪い側面、不都合な特徴もあえてそのまま伝えることが必要となります。あるいは、敗れた戦争や試合、災害や事件も忘れてはなりません。

 未来を担うのは子供たちですから、その子供たちに対して何かをたくらむのは人の本能であり、親の宿命です。たくらみは政治家たちだけでなく、教育者たちも子供への企てを表明すべきなのです。そして、その共通のたくらみは「子供たちをふるさと好きにする」ことに尽きます。そのための第一歩はふるさとを正しく知り、伝えることです。つまり、ふるさとの歴史と文化を知り、それをそのまま伝えることです。

 子供たちにどんなふるさとを記憶させたいか。そのために、まずは子供たちに正しい知識、情報を伝えることです。その正しい知識、情報の中で、何を取捨選択し、どんな優先順位をつけるか、それこそが私のわるだくみ、いや大人のわるだくみなのです。それは確かにわるだくみですが、楽しく、有意味なわるだくみです。

 私の場合のふるさとは(現妙高市の)小出雲の記憶ですから、小出雲のどんな歴史、文化を子供たちに記憶させたいかということになります。妙高市妙高市の各地域など、それぞれのふるさと記憶、ふるさと現状の取捨選択は大人にとっても(億劫がりの私にとっても)楽しい作業の筈です。