えちご妙高にかかわる俳人たちを想う(6)

<俳句から和歌へ>

 越後の人にはおなじみの「新潟日報」の題字は会津八一の筆によるもの。彼の雅号は「秋艸道人」あるいは「秋艸堂主人」。「艸」は「草」で、「秋艸」は「しゅうそう」と読み、「秋の草」のことです。妙高市の「艸原祭」の「艸」は「茅」のことで、艸はくさかんむりの異体です。

 会津八一は、1881年8月1日に新潟県で生まれました。そこに登場する数字はすべて1と8からなっていたので、「八一」と命名されました。1900年に上京、脚気を病み帰郷する前に、正岡子規を訪ねています。早稲田大学文学部を卒業した八一は、26歳で有恒学舎(現県立有恒高校、上越市板倉区)の英語教師となり、その後早稲田大学文学部の教授になります。女子美術学校の女子学生と恋仲になりますが、うまくいかず、そのため有恒学舎に就職、英語を教える傍ら、小林一茶を研究し、一茶の『六番日記』を妙高市の入村四郎宅から発見しました。『一茶句帳』、『一茶句集』、『おらが春』にある一茶の句は2,400~2,500句でしたが、この八一の新発見により、一茶の未公開の句が一気に2,500~2,600句ほど加わり、倍増しました。

 俳句と短歌は似て非なるものですが、有恒学舎の教師時代までの八一の情熱は俳句に傾いていました。正岡子規主宰の『ほととぎす』が創刊されると、俳号を八朔郎として、投句するようになります。明治 40年4月には『新潟新聞』の俳句の選者となり、そこに「俳句を募る」という記事に、「県下の俳壇に會津八朔郎を有するは尚ほ中央散文界に夏目漱石を有するが如し」と書いています。

 一方、八一は有恒学舎在職中から奈良を訪れ、仏教美術を研究し、それまでの俳句を止め、短歌に転向していきます。上京後も奈良大和の研究と歌詠みは続けらました。そして、大正13年最初の歌集『南京新唱』を刊行します。奈良は京都からみて南にある都で、それゆえ、南京(なんきょう)です。八一が失恋した人は明治40年に結婚します。その前年の9月に、八一は私立有恒学舎に赴任したのですが、彼女が結婚してからは、学校の日直室で酒に酔い痴れていたようで、その心の痛手を癒すために奈良の古社寺を訪ねたのです。それが明治41年の8月でした。

 後輩の相馬御風も越後糸魚川の人で、良寛研究家、早稲田大学の「都の西北」の作詞者でもあります。高田中学(現県立高田高校)を経て早稲田大学に進みます。中学以来の学友が小川未明です。中学時代から「御風」と号して、すでに短歌を数多く詠んでいます。