有恒学舎と会津八一

 上越市板倉区にある県立有恒高等学校の前身は私立有恒学舎で、明治29年当時29歳の増村朴斎が私財を投じて創立しました。かつては「西の松下村塾、東の有恒学舎」と呼ばれました。朴斎の教えは現在の有恒高校にも受け継がれています。有恒学舎創立の時に、元幕臣勝海舟が校名を書き送っています。また、明治39年からは会津八一が4年間在職し、英語を教えました。

 私の子供の頃、故郷の妙高では国公立大学が私立大学より優れていると疑いなしに信じられていて、私の出た県立高校などは国立大学に入学させることを目指して受験教育に明け暮れていました。私立の文学部に行きたいと担任教師に言ったら一笑に付されたのを今でもよく憶えています。当時、妙高に私立学校はありませんでしたが、妙高の隣の板倉村(現上越市板倉区針)には有恒学舎がありました。当然ながら、人々には勉強のできる子供の行く学校ではないと思われていました。

 孔子の『論語』から校名がとられ、「有恒」とは「他にまどわされない一定不変の心を持つ」ということを意味し、そのような心をもつ人間を育成することを目指していました。有恒学舎は明治29年に針出身の増村朴斎が設立し、「西の松下村塾、東の有恒学舎」とも呼ばれました。東京に福沢諭吉慶應義塾大隈重信の東京専門学校(後の早稲田大学)、京都に新島襄同志社英学校が、そして板倉には増村朴斎創立の有恒学舎があったのです。学校創立時には勝海舟が校名を書き送っています。しかし、昭和26年に板倉村立有恒高等学校(定時制)が開校、昭和39年には全日制の県立有恒高等学校となりました。

 会津八一は明治39年から4年間英語教師として有恒学舎に在職し、小林一茶の俳句の収集を熱心に行っています。明治43年坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となります。その後、早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義、さらに昭和6年早稲田大学文学部教授となります。

 八一の書は清廉そのもので私の好きな書です。画像は禅語の「林下十年夢 湖邊一笑新」で、日展に出展しようと意気込んで書いたものです。読み方は「りんかじゅうねんのゆめ こへんいっしょうあらたなり」で、「一人前になるには十年は必要、しかし 十年はあっという間で、その苦しさの中で頑張れば、報われて喜びの時が来る」といった意味です。もう一つは「新潟日報」の題字です。八一の住まいの号は「秋艸堂」で、「艸」は草を総称する語句で、彼が萩・菊・葉鶏頭など秋の草花を好んだことから命名されました。妙高の「艸原祭(そうげんさい)」にも使われる文字ですが、妙高は春の草、八一の場合は秋の草が意味されています。「秋艸道人(しゅうそうどうじん)」の雅号も見えます。

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