河鍋暁斎と日本画

 河鍋暁斎記念美術館は埼玉県蕨市にあり、幕末から明治時代前半の江戸、東京で活躍した狩野派絵師河鍋暁斎(かわなべきょうさい、1831-1889)の美術館です。

*「暁斎」は「ぎょうさい」とは読まず、「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたもの。

 暁斎は数え7歳で歌川国芳に学び、10歳からは狩野派で修業。浮世絵と狩野派双方の画技を身につけ、さらにあらゆる技法・画法を貪欲に習得し、肉筆画や錦絵など多くの作品を生み出し、「描けぬもののない絵師」と呼ばれました。

 暁斎は浮世絵と狩野派の画法だけでなく、琳派や円山四条派などの画法も学び、さらには中国画や西洋人体図などの画法も習得しています。その絵画への情熱は凄まじく、娘の「河鍋暁翠」(かわなべきょうすい)は「父の寝顔を見たことがない」と語っているように、絵画に没頭していました。

 暁斎の画力は円山応挙伊藤若冲と並び評され、国外での評価は葛飾北斎と共に高いものです。でも、あまりにも広範なジャンルをこなし、代表作を絞ることができず、日本国内では日本画家から除外されてきました。暁斎の再認識のために重要なのが彼の弟子となったイギリス人建築家ジョサイア・コンドルです。欧米での暁斎の人気は彼が出版した書籍をきっかけに高まり、それを機に多くの画商が暁斎の作品を購入し、国際的な評価が高まりました(コンドル著『河鍋暁斎』(岩波文庫))。

 お雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルについては既に述べましたが、彼は現在の東京大学工学部の前身である工部大学校造家学科教授を勤め、上野博物館や鹿鳴館等を設計したことでも知られています。なお、暁斎の弟子はイギリス人のジョサイア・コンドルだけではなく、オーストラリア出身の画家モーティマー・メンペスも河鍋暁斎に師事し、日本人の弟子も優に20名を超えていました。

 晩年の暁斎狩野派の画法を守ることを依頼され、狩野派の再興にも努めました。1884(明治17)年夏、駿河狩野派宗家の当主狩野洞春(かのうとうしゅん)が逝去。洞春は狩野派暁斎に託します。狩野派の技術に通じた暁斎駿河台狩野家を継ぎ、狩野派の画法を後世に伝えようと尽力しました。最晩年、暁斎東京美術学校(現在東京芸術大学)で教鞭を執ることを依頼されます。岡倉天心やアーネスト・フェノロサからの依頼でした。でも、当時既に病床にあった暁斎はこの受諾を断念。1889(明治22)年暁斎はコンドルに看取られながら亡くなります。享年57歳、死因は胃がん

**暁斎は写生狂と言われています。有名なエピソードが「生首写生事件」です。歌川国芳門下での写生指導は有名で、暁斎は画帖を持ち歩き、町の様子を写生していました。暁斎が9歳のある梅雨の日、増水した神田川で流れてくる生首を発見。彼はそれを自宅に持ち帰ります。それでも暁斎の画才を評価していた父は、もとのところへ戻すことを条件に写生を許可したと伝えられています。

***岡倉天心が五浦に日本美術院を開くのは1898(明治31)年