冬を感じ、春を感じ、それぞれにいのちを感じる

 冬を感じさせてくれる風景となれば、枯野とそこのものたち。枯野なればこそ、いのちの存在がとても目立つのである。枯野の中で、いのちは際立たざるを得ないのだ。

 枯野に勾配があり、そこに雪が積もれば、ゲレンデに変わり、枯野どころではなく、白銀輝く雪原へと豹変する。風景など人の思案ですっかり変わるもので、風景は確かに人の制作であると妙に納得できるのである。

 だが、人の入り込んだことのない枯野は、確かに未踏、未開の枯野である。すると、それが地球の原風景だなどとつい納得しがちなのだが、それとて長い年月をかけて地球自らが制作してきた風景であり、自然と人工の区別など、所詮暫定的、暫時的なものに過ぎないのである。

 冬という季節といのちとの出現のいずれが先かなどは大した意味を持たない問いなのだが、どちらも遥か太古のことで、いのちと冬のマッチングが「寂しい枯野」風景を私たちにもたらしたと思えてならないのである。そんなマッチングを背景に置くなら、次の二句が描く風景は至極納得できるのである。

 

芭蕉 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

漱石 吾が影の吹かれて長き枯野かな

 

 とはいえ、人は季節に踊らされもので、春間近となれば、枯野は野焼きの舞台になり、いのちの再生と結びつき、「生き生きした枯野」に変身する。

 

一茶 野火つけてはらばふて見る男哉