妙高に連なる人々:初めに

 妙高に生まれ、育ち、離れ、帰り、訪れ、移り、亡くなる人たちを巡って、妙高の長い歴史が育まれてきました。まずは、そんな中の二人に焦点を当ててみたいと思っているのですが、その二人とは森蘭斎と岡倉天心で、天心は赤倉に移住した人、蘭斎は新井に生まれた人です。

 二人について語る前に、私の大学での経験について話しておきましょう。私がいた文学部の哲学科の哲学専攻の隣には倫理学専攻の他に美学美術史学専攻があり、互いの交流は緊密で、それは教員についても同様でした。まだ私が助手の頃、美学美術史の先輩たちは大昔の仏教美術や西洋の古典美術の研究者が多く、美学はヘーゲルの美学が教えられていました。江戸時代の美術研究者は一人しかおらず、浮世絵は高橋誠一郎という有名なコレクターが経済学部にいても、彼はコレクターでしかなく、今では誰もが知る伊藤若冲曾我蕭白長沢芦雪、そして森蘭斎などはまるで研究されていませんでした。江戸時代の絵画は浮世絵以外誰も知らない空白地域といった雰囲気が漂っていました。江戸期の先輩研究者は私と飲みながら、その状況に愚痴をこぼしていたのを今でもよく憶えています。日本美術史の妙にいびつな研究の実態を横から見ていた私には当時その理由など考えることもなかったのですが、それがいつの間にか多くの江戸の画家の作品が見直され、森蘭斎の唐画と呼ばれる分野もその一つでした。今の日本美術史の研究状況を見ると、大学に入ってから20年程は旧来の日本美術史にどっぷり浸かっていた私には正に隔世の感があります。この大きな転換の中に対立するかのように位置し、しかも妙高に関わる二人が森蘭斎と岡倉天心なのです。

 天心やフェノロサらが高く評価したのは、琳派の画家、狩野芳崖らをはじめとする日本美術院の画家、そして円山応挙らでした。天心らは江戸狩野派の絵画の大半、大坂画壇の絵画のほとんど、さらに幕末明治期の文人画のほとんどを評価しませんでした。天心によって確立される日本近世近代絵画史は近世絵画史と近代絵画史とを分断し、その結果、江戸時代と明治以降の美術作品の連続性を無視することになりました。ですから、江戸絵画史を専門とする研究者は近代絵画を扱わず、近代絵画史の研究者は江戸の絵画を扱わない、という専門分野の棲み分けがなされてきたのです。

 そして、これは私が学生時代に経験し、感じたことに見事に合致しているのです。近代絵画と江戸絵画は別々の美術史家が別々に扱い、その間の交流はほぼなく、上記の先輩の愚痴に繋がっていたのです。また、私自身10歳頃に祖父が森蘭斎の絵について話していたのを憶えていても、学校で森蘭斎について聞いたことは一度もないのです。