法的、政治的、そして道義的責任

 27日に道義的責任について私見を述べました。三つの責任の間に軽重の違いがあるというのが政治家だけでなく、世間の通り相場のようです。責任の重さを計る信頼できる尺度も術もないのに、その責任の軽重を議論するとは何とも軽々しい所業で、いかにも世故に長けた人々が考えそうな悪知恵としか言いようがありません。

 「罪と罰」は小説のタイトルになるほどに、いつも対になって考えられ、使われてきましたが、1対1のしっかりした対応関係が罪と罰の間にある訳ではありません。罪と罰の対が考えられても、時代、地域によってその関係は随分と違っていました。罪の概念が明瞭でなければ、罰が決められず、罰がはっきりしなければ、罪も曖昧になってしまいます。それを一挙に解決しようというのが罰則付きの法律で、法律は人の見事な発明工夫の一つと言えます。

 法律は曖昧な罪を明瞭にするために罰を設けています。罰あるいは実刑は明瞭で、それゆえ、社会では極めて有用です。ですから、罪と罰が法律によって定められていれば、罰を受けることが個人の責任の遂行につながります。「責任を果たすこと」=「罰を受けること」であり、「罪を犯すこと」=「法律に違反すること」ですから、法律がある限り、責任は罰を受けることによって果されます。これが一般的な道義的責任や政治責任と違うところで、道義や政治の責任にはそれらに対応する領域(心の中の世界と政治の世界)をカバーする法律が十分ではないのです。

 このように考えてくると、三つの責任の軽重は法律がカバーできる範囲の広さによっていて、カバーしにくい道義的、政治的責任は法的責任より軽く、精神的な道義的責任は政治的責任よりさらに軽いことになります。何とも勝手な理屈としか言いようがありません。