ヒスイ再発見の大きな謎

 日本史の中に登場するヒスイは謎だらけですが、私にとっての大きな謎はヒスイ再発見についての相馬御風の沈黙です。『野を歩む者』などで故郷を積極的に描き、述べていた彼がヒスイとその発見については一切何も述べていないのです。

 1938(昭和13)年、相馬御風が知人の鎌上竹雄に大昔の糸魚川を治めていた伝説上の奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたことから、糸魚川にヒスイがあるかも知れないという神話を話した。鎌上は親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)の伊藤栄蔵にその話を伝え、伊藤は地元の川を探した。そして、彼は土倉沢の滝壷で緑色の石を発見する。  1939(昭和14)年6月、この緑の石は鎌上の娘が勤務していた糸魚川病院の院長小林総一郎を通じて東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼に送られた。河野の分析により、小滝川で採取された緑色の岩石はヒスイであることがわかった。1939(昭和14)年7月、河野による現地調査の結果、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、同年11月に論文が書かれた(*)。

 さて、大きな謎は御風が小滝川でのヒスイの発見を知人の考古学者だけでなく、誰にも伝えていないことである。御風は年に4から6号のペースで『野を歩む者』を発行していて、身辺のことなどを詳しく述べているのだが、そこにも小滝川のヒスイの発見や、河野義礼がヒスイの調査に来たことなどは一切書かれていないのである。御風は亡くなる1950(昭和25)年まで糸魚川で発見されたヒスイのことをどこにも何も述べていないのである。御風のこの徹底した沈黙はなぜなのか。

 ヒスイが小滝川で発見された1938(昭和13)年には既に日本と中国の戦争が始まっていて、ヒスイの発見を発表すると、しっかり保護できない、と御風は考えたのかも知れない。だが、終戦後も御風はヒスイのことを何も語っていない。ヒスイ発見を公表し、天然記念物になれば、欧米との戦争推進に利用される危険があるので、あえて沈黙したとも考えられる。だが、御風の『野を歩む者』には戦争礼賛が多数見られ、作詞した国民歌の曲名には戦争推進のものが多く、戦争反対のための沈黙とは考えにくい。御風は大腸カタル(1944年)、敗血症(1945年)、左眼失明(1946年)等が続き、この体力的な衰えから、結果として沈黙したというのが最後の理由。だが、御風の著作の数を調べると、1942~1950年の間に15冊の本を刊行し、『野を歩む者』も1950年まで発刊しており、執筆意欲は十分にあった。実際、『野を歩む者』は昭和5年の第一号から昭和25年の第60号まで、御風一人で原稿執筆校正をすべて一人で行われている。

 さらに、御風の沈黙は戦後も続くのである。戦前の御風の沈黙の理由が、戦争にヒスイを利用させないためであるなら、なぜ終戦後も沈黙を続けたのか。戦後の日本は、戦火によって荒廃し、天然記念物の指定も1951年までほとんどなされていない。御風は連合国に占領された戦後の日本を見て、ヒスイの再発見を発表すれば、進駐軍によって没収、盗掘されるのではないかと恐れたのかも知れない。兎に角、御風の沈黙は徹底していて、その理由は未だによくわからない。

 その他の謎はいつヒスイが再発見されたかに関する異説である。考古学者で、ヒスイ研究を進めていた八幡一郎博士は1923年に関東大震災で荒廃した東京を離れ、御風宅を訪問し、長者ケ原遺跡で、白くてきめが細かく、点々と草緑色の斑点がある礫を拾い、東京に持ち帰ったと発掘報告書『長者ケ原』序文に記している。この礫は石英岩の一種で、草緑の斑点は特殊鉱物との接触によるものと鑑定された。彼は1942年にも長者ケ原遺跡を調査したが発見できず、緑色の礫は1942年に完成した資源科学研究所で保管していたが、1945年の空襲で焼失してしまった。この発見が本当であれば、糸魚川のヒスイは昭和13年(1938)以前から知られていたことになる。

*御風が奴奈川姫伝説とヒスイを関連づけたことの丁寧で、わかりやすい説明は土田孝雄「奴奈川姫伝説とヒスイ文化について」(『地学教育と科学運動』、76、2016)を参照してほしい。

**御風は妻テルの間に5男1女をもうけたが、4男の元雄と既述の文子以外は早世した。