小川未明:概観

 越後出身の会津八一(1881-1956)、小川未明(1882-1961)、相馬御風(1883-1950)は共に東京専門学校(1902に早稲田大学と改称)に、それぞれ1902年、1901年、1902年に入学し、坪内逍遥に学び、同じ英文学科を卒業している(未明と御風は同じ旧制高田中学で学び、未明は2回落第し、中退して東京専門学校に入学している)。「未明」という号は発表した小説「漂浪児」(1904)を褒めた逍遥が与えたもので、「びめい」とも読むが、既に1938年には「みめい」と読まれている。

 小川未明は卒業後、雑誌『少年文庫』の編集にたずさわり、童話も書くようになる。1907年に第一小説集『愁人』(隆文館)を、1910年に第一童話集『赤い船』(京文堂)を刊行。未明は社会主義思想に近づき、1926年に感想「今後を童話作家に」を発表後は、小説の筆を折り、童話に専念するようになる。その後、未明は生涯に1200編ほどの莫大な数の童話を書いている。

 御風は「小川未明論」(「早稲田文学」、明治45)で「北国-わけても越後の自然は、驚くべく単調な、そして陰鬱な自然である‥‥半年以上は単調な灰色を以て蔽われた自然である。」と述べ、さらに、大正3年出版の未明の唯一の詩集『あの山越えて』について、「…ずっと以前の君を思ひ出すと共に、僕は子供の頃の自分や越後の自然が思い出されて、たまらなく好い気持になる。そしてあの頃の君や僕と、今の君や僕と思い合せて、そのあまりに違い方の烈しいのに自分ながら驚かざるを得ないのだ。」と述べ、高田中学時代の二人の境遇と今の二人の境遇に断絶感を持っていて、それが二人を大杉栄に近づけることになる。大正2年未明は小説「嘘」を書き、それを読んだ大杉栄との間に交友が生まれ、同年御風は未明の『廃墟』を論じ、大杉との間に個人革命と社会革命の優劣に関する論争が起こる。個人の意識内の革命(御風)と、外部社会の革命(大杉)のいずれが重要かで二人が議論し、それが御風の場合は大正5年の『還元録』へ、未明の場合は社会主義運動へと繋がり、御風と未明は糸魚川と東京に分かれることになる。

 昭和に入り、御風は糸魚川で、未明は東京でそれぞれ戦時体制に協力していく。未明の場合はそれが相当に積極的で、そのため戦後に彼が児童文学協会の会長になり、昭和21年野間文芸賞、昭和26年芸術院賞、昭和28年芸術院会員、文化功労者になったことに対し、多くの批判が「二つの転向」としてなされている。と同時に、彼の作品の再評価も始まっている。その辺の事情については、後にじっくり考えてみたい。

 また、未明は「日本のアンデルセン」と賞讃されるが、彼の「赤い蝋燭と人魚」(初出1921(大正10)年)は暗く寂しく孤独な呪文のような文章で、現在の散文的な事実からなる世界を描く童話とは随分異なっている。御風が述べたように「故郷の冬の世界を呪文のように描く」ことは御風の糸魚川以上に高田、直江津の暗い世界が背景にあると思われる。越後の人魚の伝説、アンデルセンの童話が混淆し、それが暗く陰鬱な越後を背景に述べられ、それが呪文のごとき効果をもたらしている。その人魚は、例えば堀口大學の詩「人魚」(『砂の枕』1926(大正15)年)と大きく異なり、何とも越後風なのである。