(1)御風の転向:『野を歩む者』と軍人との書簡など
相馬御風は島村抱月の『早稲田文学』で自然主義評論家としてスタートし、25歳で三木露風、野口雨情らと「早稲田詩社」で口語自由詩を目指す。早稲田大学の校歌「都の西北」を作詞。1916(大正5)年御風34歳の時、編集責任を負っていた『早稲田文学』が秩序紊乱を理由に当局から発売禁止処分を受ける(特高の監視が第二次大戦中も続く)。御風は同年の3月に『還元録』を出版し、郷里糸魚川へ帰る。『還元録』には人間の生活のある糸魚川で生まれ変わり、「凡夫の生活」を目指すとある。1923(大正12)年、童謡「春よ来い」を作詞。1930(昭和5)年、一人雑誌『野を歩む者』を創刊。
相馬御風が郷里の糸魚川に戻ったのが1916(大正5)年。結婚していた御風には既に4人の子供があった(長男(1910生)から四男(1915生))。今様に表現すれば、御風は帰郷者で、妻や子供たちは移住者だった。さらに、御風が『野を歩む者』を一人編集で発刊し、糸魚川からの発信を始めたことも考えると、田舎への移住とそのSNS上での発信という現在のスタイルの、極めて初期の「先駆け」的な一例として御風の「還元」を捉えることができそうである。
『野を歩む者』は御風が一人で執筆し、編集した雑誌であり、彼の糸魚川での生活が平易に綴られている。私が関心を持つのは、時代が大正から昭和に移り、次第に戦争に突入していく中で、その変化が『野を歩む者』の内容の変化に反映されていることである。早稲田大学で自然主義文学に熱中し、口語詩を試み、終にはそれらに失望して帰郷し、昭和に入ってから開戦時まで、さらには戦中、戦後の社会の大きな変化に対し、彼がどのように感じ、何を見ていたのか、それを明らかにしてくれるのが『野を歩む者』である。
まずは、『野を歩む者』の第一号(1930(昭和5)年10月刊)。意欲的なタイトルが目次に並んでいる。しかし、昭和7年7月、御風の妻テルの持病腎臓炎が悪化し、病床に臥す。人手を借りず御風一人で看護に努めたが、御風誕生日の7月10日に逝去。御風の悲嘆は深く、自身も病床につくことが多くなり、執筆も進まなかった。後に、テル遺稿集『人間最後の姿』を共著として出版。その時の御風の思いは第二巻第十号にも記されている。
太平洋戦争は昭和16年に始まるが、その年の第六十号の目次から御風の戦争への姿勢、態度を窺い知ることができる。目次は勇ましいタイトルが並ぶ。その一つが「神剣降魔(ごうま)」。降魔は「悪魔を降伏 (ごうぶく) すること」を意味し、神から授かった剣で悪魔を降伏させるという意味である。画像の「大詔漁発」は「大詔喚発」と同義と思われる。最後の「大東亜戦争」の二首の歌は開戦の興奮が表現されているが、当時の御風の気持ちだと思うと、彼の若き時代と隔世の感があると多くの人は感じるだろう。


御風と軍人との書簡往復の三例を挙げておこう。まずは、長岡出身の山本五十六で、彼が講演の途中に糸魚川の御風宅を訪れ、御風が彼に詩を贈ったことが発端になり、二人の交遊が始まった。昭和18年山本の戦死が公表され、御風は多くの歌、詩を作っている。最も親密だったのが陸軍大将多田駿で、昭和12年から御風の良寛研究に感銘し、昭和17年には糸魚川の自宅を訪問している。最後は、高田中学の2年先輩の建川美次中将で、同窓ということから親交があった。
御風と高村光太郎との交遊は有名だが、御風と同じ年の北大路魯山人は三度も御風宅を訪れている。魯山人の良寛への強い関心から最初の訪問は昭和13年だった。
*画像は『野を歩む者』第一号目次、『野を歩む者』第六十号目次と「神剣降魔、大詔漁発、大東亜戦争」
(2)御風と未明
越後出身の会津八一(1881-1956)、小川未明(1882-1961)、相馬御風(1883-1950)は共に東京専門学校(1902に早稲田大学と改称)に、それぞれ1902年、1901年、1902年に入学し、共に坪内逍遥に学び、同じ英文学科を卒業している(未明と御風は同じ旧制高田中学で学び、未明は中退して東京専門学校に入学)。「未明」という号は在学中に発表した小説「漂浪児」(1904)を褒めた逍遥が与えたもので、「びめい」と読むが、既に1938年には「みめい」と読まれている。
未明は卒業後、雑誌『少年文庫』の編集にたずさわり、童話も書くようになる。1907年に第一小説集『愁人』(隆文館)を、1910年に第一童話集『赤い船』(京文堂)を刊行。未明は社会主義思想に近づき、1926年に感想「今後を童話作家に」を発表後、童話に専念するようになる。未明は生涯に1200編を越える莫大な数の童話を書いている。
御風は「小川未明論」(「早稲田文学」、1912(明治45))で「北国-わけても越後の自然は、驚くべく単調な、そして陰鬱な自然である…半年以上は単調な灰色を以て蔽われた自然である。」と述べ、さらに、1914(大正3)年出版の未明の唯一の詩集『あの山越えて』について、「…ずっと以前の君を思ひ出すと共に、僕は子供の頃の自分や越後の自然が思い出されて、たまらなく好い気持になる。そしてあの頃の君や僕と、今の君や僕と思い合せて、そのあまりに違い方の烈しいのに自分ながら驚かざるを得ないのだ。」と述べ、高田中学時代の二人の境遇と今の二人の境遇に断絶感を持っていた。1913(大正2)年未明は小説「嘘」を書き、それを読んだ大杉栄との間に交友が生まれ、同年御風は未明の『廃墟』を論じ、大杉との間に個人革命と社会革命の優劣に関する論争が起こる。個人の意識内の革命(御風)と、外部社会の革命(大杉)のいずれが重要かで二人が議論し、それが御風の場合、1916(大正5)年の『還元録』へ、未明の場合は社会主義運動へと繋がり、御風と未明は糸魚川と東京に分かたれることになる(特高による未明の監視も続く)。
昭和に入り、御風は糸魚川で、未明は東京でそれぞれ戦時体制に協力していく。未明の場合はそれが真に積極的で、そのため戦後に彼が児童文学協会の会長になり、昭和21年野間文芸賞、昭和26年芸術院賞を受け、昭和28年芸術院会員、文化功労者になる。
(3)未明の複数の転向
小川未明は高田の旧下級士族に生まれた。未明の父澄清は上杉謙信の崇拝者で、1901(明治34)年米沢市の上杉謙信を祀る上杉神社より分霊、謙信公を祭神に祀った春日山神社を創建した。謙信の信奉は、小川父子に共通するもので、小川未明の思想や文学創作に大きな影響を与えた。また、漢学塾教育も小川未明の文学創作に影響を与えている。彼は小学校に入学する前から漢学塾で学び、四書五経を中心とした儒教の教育を受けていた。
小川未明に関わる主要な作品を、不十分だが先に列挙しておこう。
・1921(大正10)「赤い蝋燭と人魚」(東京朝日新聞夕刊)(1975(昭50)いわさきちひろ画で、童心社刊)
・1926(大正15)「今後を童話作家に」(東京日日新聞)(未明の童話作家宣言)
・1942(昭和17)『新しき児童文学の道』(フタバ書院成光館)(未明の軍国主義的な思想をまとめたもの)
・1959(昭和34)古田足日『現代児童文学論:近代童話批判』(くろしお出版)(未明らの近代日本童話からの脱却を宣言したもの)
・1966(昭和41)上笙一郎『未明童話の本質-「赤い蝋燭と人魚」の研究』(勁草書房)(その成立過程を多角的に追求)
・2002(平14)岡上鈴江『父 小川未明』(新評論、初版は1970)(岡江は未明の次女)
童話に転向した未明の優れた作品の多くは大正期に生まれている。中でもよく取り上げられるのが「赤い蝋燭と人魚」(1921)で、未明39歳の作品。彼が「日本のアンデルセン」と言われることになった作品で、人間は優しいと思った人魚の母が自らの赤ん坊を老夫婦に託すが、老夫婦は裏切り、香具師に人魚の娘を売ってしまうという物語である。東京朝日新聞に連載され、小川未明の出世作となった。未明の故郷の高田には「人魚塚」という民話があり、未明は1912(明治45)年の「北方文学2号」でそれについて書いている。それ以上に、アンデルセンの「人魚姫」が強く影響している。「人魚姫」の翻訳は1911(明治44)年上田万年によってアンデルセンの25編の童話が翻訳された『安得仙家庭物語』(鐘美堂)に「小海姫」の題名で掲載されたのが最初。その後、「人魚姫」は1920(大正9)年に西条八十により翻訳され,「人魚ものがたり」の題名で『金の船』に掲載される。未明は同じ童話作家の西条八十が翻訳した「人魚ものがたり」に刺激をうけ,これまであたためてきた上記の越後伝説をモチーフにした童話を1921(大正10)年2月の東京朝日新聞に「赤い蝋燭と人魚」の題名で発表したと思われる。越後の暗く陰鬱な冬の風景と呪文のような文章が原作とは異なる独特の世界を描き出している。
次の年に発表されたのが「野ばら」で、未明40歳の作品。老兵と青年兵が二つの国の国境を見張っていた。老人は大きい国の兵士で、青年は小さい国の兵士。二人は親友になるが、二国の間で戦争が勃発。老兵が自分を殺して手柄にするよう青年兵に言うが、青年は殺すことを拒否し、遠い戦場へ向かう。国境に残った老人は青年の身の上を案じながら、一人で暮らしていた。終戦後、老人は近くを通りかかった旅人から小国の兵士は全滅したと教えられる。その夏に野ばらは枯れ、老兵は息子や孫の待つ祖国に帰る。友情の素晴らしさと戦争の理不尽さを語りかけてくる「野ばら」は妙に私の心に残る作品で、その後の未明の作品とは大きく異なっている。人生の義ではなく、善のすばらしさを語っている。今は多くの人がロシアとウクライナやパレスチナとイスラエルの戦争を想起するのではないか。
「少女と老兵士」は『中央公論』に1939(昭和14)年に発表される。この辺から未明の思想も行動も大きく変わる。1941年日本少国民文化協会が発足し、この協会は戦中において唯一の公的な児童文化団体となる。1943年には戦況が悪化し、日本少国民文化協会は創立目的に「聖戦を完遂二挺進スルヲ目的トス」を加え、翼賛団体としての性格を一層鮮明にする。未明は少国民協会委員で、1942年に第一回少国民文化功労賞を受賞する。次女の岡上鈴江は小川未明が熱狂的な愛国者で、大東亜共栄圏建設に参加したと述べている。
高村光太郎は彫刻家の高村光雲の長男で、多くの戦争賛美詩を発表した。この点では未明によく似ている。戦時中、光太郎と相馬御風との間には交遊があった。御風は光太郎と同じ1883(明治16)年の生まれだが、明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っている。大正に入り、光太郎は口語自由詩に移行するが、御風は1908(明治41)年には既に口語自由詩を発表している。光太郎が日本文学報国会の詩部会長を務め、御風もその会員に名を連ねている。
戦後、光太郎は自らの詩が若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送る。人道主義的な立場にありながら、積極的に戦争に協力したことへの自責の詩が「暗愚小伝」。彼が敗戦までの自らの生涯を振り返ったもので、Web上で読める。
さて、未明が属していた日本少国民文化協会は大政翼賛会の指導下にあり、戦時下の少年たちの戦意昂揚を目的としていた。光太郎に似て、未明も少国民文化協会設立の会合などで愛国的情熱を吐露して少国民文化建設を叫んでいた。光太郎の「暗愚小伝」に対して未明は「子供たちへの責任」(『日本児童文学』1946(昭21))を書く。その中で、「戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。…それが終戦後の態度はどうであるか。今までの敵を賛美しまちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然として語っている。子供は大人に対して抗議する力をもっていない。しかし批判力がないとだれが云い得よう」と彼が述べる真意は何だったのか。
さて、作家としての未明の転向について考えてみよう。画家や音楽家の場合、作品と作者は大抵の場合区別されていて、作品の評価と音楽家や画家の人間評価は別のものであると考えられてきた。画家の素行と作品の価値は別ものと看做されてきた。だが、文学の場合、作家と作品の間には密接で、複雑な関係があると考えられていて、それは評論の主要な主題、領域とさえ捉えられてきた。
私小説は自伝的小説でもある。一方、小説は作家が虚構の世界を構築することだから、作家と語り手と主要人物が同じことを前提にした私小説では、作家の「私」をできるだけ事実に近い形で叙述することと虚構世界をつくることとは相反する行為になっている。作家と語り手と主要人物が同一であって、作家個人の姿をできる限りありのままに描写しようとすれば、それは自伝や日記になるしかない。逆に、小説であることを追求すれば、その題材を作家の身辺的な事柄に限定せずに、想像力によって虚構の世界を構築しなければならなくなる。
小林秀雄がルソーの『告白』を私小説の原型とみなす理由は、ルソーが自己認識、自己探求を徹底的に行ったからである。そして、小林が強調するのは、ルソーの試みを徹底すれば、自己を取り巻く他者や社会を自らの問題にせざるを得ない点である。ルソーは自己と社会や自然と対決し、逃げることなく、徹底的に立ち向かった。小林が日本の私小説に不満を抱くのはこの点で、日本の私小説において描かれる「私」は、社会化されていないと批判する。
さて、小川未明は小林秀雄が固執する私小説の「私」を自らの童話で使うことはなかった。童話の主人公は大抵子供であり、未明自身が「私」として作品中に登場することはまずない。未明が私小説を書いていたなら、上記の小林秀雄の批判やルソーの試みに対して、どのように反応するだろうか。未明は自らの転向について反省めいたことを述べていないので、何とも言えないが、もし彼が童話の中に自らを登場させようとしたなら、「私」は転向をどのように告白するのか、私にはとても興味深いのである。私には彼の二回の転向を読者に納得させる仕方で述べるのは不可能としか思えない。
『転向者・小川未明 「日本児童文学の父」の影』は増井真琴著で、出版社は北海道大学出版会(2021)。彼が北海道大学に提出した博士論文がもとになっている。未明の大正期の童話作品にのみ光が当たり、社会主義者から国家主義者への転向、そして戦後の民主主義者への再転向はほとんど知られていない。その転向の実態を知ると、童話作家のイメージは崩れていく。漢詩を愛する文学少年は早稲田で口語自由詩を紡ぐ詩人となり、童話を中心に作家活動を続け、社会主義思想やアナキズム運動に関心を持ち、大杉栄との交流を深め、革命後のロシアを「正義の国」と称賛する。それが、昭和になると一転し、天皇制国家主義者に転向する。戦後は再転向し、民主主義者に転じ、児童文学者協会の最初の会長になり、戦時の日本社会を強く批判する。では、未明はなぜ転向に関して、弁明、反省をしなかったのか。著者は、未明を自己と向き合わない作家と結論している。小林秀雄風には、「私」を自ら社会化しなかったのだが、その徹底ぶりは見事で、「作品だけで評価する」ことが何を意味するか、改めて考えざるを得ない。