相馬御風が『還元録』を書いて郷里の糸魚川に戻ったのが1916(大正5)年。既に結婚していた御風には既に4人の子供があった(長男(1910生)から四男(1915生))。今様に表現すれば、御風は帰郷者で、妻や少なくても2人の子供たちは移住者だった。さらに、御風が『野を歩む者』を一人編集で発刊し、糸魚川からの発信を始めたことも考えると、田舎への移住とそのSNS上での発信という現在のスタイルの、極めて初期の「先駆け」的な一例として御風の「還元」を捉えることができそうである。だが、平和時の現在とは異なり、御風一家の生活は大正から昭和の激動の時代の中にあった。
『野を歩む者』は御風が一人で執筆し、編集した雑誌であり、彼の糸魚川での生活が平易に述べられている。私が関心を持つのは、時代が大正から昭和に移り、次第に戦争に突入していく中で、その変化が『野を歩む者』の内容の変化に対応していることである。早稲田大学で自然主義文学に熱中し、口語詩を試み、終にはそれらに失望して帰郷し、昭和に入ってから開戦時まで、さらには戦中、戦後の社会の大きな変化に対し、彼がどのように感じ、何を見ていたのか。ここではその幾つかを確認してみたい。
まずは、『野を歩む者』の第一号(1930(昭和5)年10月刊)。意欲的なタイトルが目次に並んでいる。しかし、昭和7年7月、御風の妻テルの持病腎臓炎が悪化し、病床に臥す。人手を借りず御風一人で看護に努めたが、御風誕生日の7月10日に逝去。御風の悲嘆は深く、自身も病床につくことが多くなり、執筆も進まなかった。後に、テル遺稿集『人間最後の姿』を共著として出版。その時の御風の思いは第二巻第十号にも記されている(画像は昭和7年(1932)第二巻第十号の「おもかげ」)。
太平洋戦争は昭和16年に始まるが、その年の第六十号の目次から御風の戦争への姿勢、態度を窺い知ることができる。目次は勇ましいタイトルが並ぶ。その一つが「神剣降魔(ごうま)」(画像)。降魔は「悪魔を降伏 (ごうぶく) すること」を意味し、神から授かった剣で悪魔を降伏させるという意味である。画像の「大詔漁発」は「大詔喚発」と同義と思われる。最後の「大東亜戦争」の二首の歌は開戦の興奮が表現されているが、当時の御風の気持ちだと思うと、彼の若き時代と隔世の感があると多くの人は感じるだろう。
御風と軍人との書簡往復の三例を挙げておこう。まずは、長岡出身の山本五十六で、彼が講演の途中糸魚川の御風宅を訪れ、御風が彼に詩を贈ったことが発端になり、二人の交友が始まった。昭和18年山本の戦死が公表され、御風は多くの歌、詩を作っている。最も親密だったのが陸軍大将多田駿で、昭和12年から御風の良寛研究に感銘し、昭和17年には糸魚川の自宅を訪問している。最後は、高田中学の2年先輩の建川美次中将で、同窓ということから親交があった。
既に高村光太郎との交遊について述べたが、御風と同じ年の北大路魯山人は三度も御風宅を訪れている。魯山人の良寛への強い関心から最初の訪問は昭和13年だった。
*画像は『野を歩む者』第一号目次、『野を歩む者』第二巻第十号「おもかげ」、『野を歩む者』第六十号目次と「神剣降魔、大詔漁発、大東亜戦争」



