トルストイの『復活』での「カチューシャの唄」は1914(大正3)年に島村抱月、相馬御風作詩、中山晋平作曲、翌年のツルゲーネフの『その前夜』での「ゴンドラの唄」は吉井勇作詩、中山晋平作曲で、それぞれの芸術座公演の中でいずれも人気を博し、二つの唄は歌謡曲として広く歌われることになります。御風は二つの作品を英語から重訳したのですが、御風の名前が出るのは「カチューシャの唄」の作詩だけ。御風は退廃的な吉井勇の作品を批判していたのですが、吉井による「ゴンドラの唄」の詩は森鴎外の『即興婦人』を下敷きにしたものでした。その後も似たような挿入歌が人気を博し、北原白秋や三木露風が作詞し、中山晋平が作曲しました。こうして、島村抱月の自然主義は次第に大正ロマン主義へと変化していくのです。
中山晋平(1887-1952)は御風(1883-1950)より若いのですが、彼は親戚のつてで島村抱月の書生として住み込みながら、東京音楽学校で学びます。島村抱月は英国への留学から帰国し、その抱月に師事した御風は当然中山晋平をよく知っていた筈です。抱月は女優松井須磨子等と共に芸術座を立ち上げ、トルストイの『復活』を上演することになり、その劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を書生だった中山に依頼しました。「カチューシャの唄」は大ヒットし、中山晋平は作曲家としての地歩を固め、さらに、ツルゲーネフの『その前夜』の劇中歌「ゴンドラの唄」も作曲し、これも大ヒットすることになります。その後も中山の作曲は続き、「船頭小唄」、「波浮の港」等の歌謡曲、「あの町この町」、「背くらべ」、「てるてる坊主」等の童謡、「東京音頭」、「天龍下れば」等の新民謡等のヒット曲を出し続けました。驚くことに、彼は生涯に童謡824、新民謡292、歌謡曲467、その他校歌、社歌222を作曲しています。
中山晋平は長野県下高井群新野村(現中野市大字新野)に生まれました。近くに千曲川が流れ、北信五岳と言われる山並みをバックに広々とした田園風景が続きます。村長を務めた父は晋平6才の時に他界、母は女手ひとつで4人の男の子を育てました。彼は高等小学校を主席で卒業し、16歳で代用教員として近隣の小学校の教壇に立ちます。
御風は自らが目指した文学活動における自然主義が上記のような演劇状況の中でその意味を消失し、自らの生きる目標を見失ったように思えたのではないでしょうか。御風は『還元録』でそれを明確に述べていませんが、彼自身はトルストイの生き方に強く共感していて、その生き方を実践するために故郷糸魚川に還元したと推測できます。
*「新民謡」は大正期に新しく作曲された民謡調の音楽で、日本各地の特徴を詩に込めたものが登場する。作詞家の野口雨情、作曲家の中山晋平が作曲した須坂小唄が新作地方民謡の最初。1919(大正8)年野口雨情と中山晋平は、民謡の旅にでかけ、水戸、大洗などをめぐる。この頃「船頭小唄(枯れ薄)」が作成され、新民謡の最初といわれる「須坂小唄」の完成は1923年(大正12年)。この新民謡は、歌うだけでなく振付けもされた。新民謡の代表格の東京音頭は、西条八十作詞、中山晋平作曲。元歌は昭和7年に作成された「丸の内音頭」で、永井荷風の『墨東綺譚』には日比谷公園で浴衣を切符代わりに開催されたことが記されている。昭和8年歌詞を一部変え、「東京音頭」と改作され、小唄勝太郎、三島一声の唄で爆発的なヒットとなる。振付けは、新舞踊の花柳寿美である。この音頭は爆発的なヒットとなり、全国を巻き込んだ旋風を巻きおこす。
*「新井甚句」、「新井小唄」も新民謡で、共に相馬御風作詩、中山晋平作曲である。