国歌、軍歌、それとも鎮魂歌、はたまた準国歌?(3)

 天皇家と大伴家の主従関係は強く、それを再確認するような家持の長歌の一部が「海行かば…」でした。その「海行かば」が歌詞になり、第二次大戦中に「海ゆかば(信時の自筆楽譜)」として作曲され、人々に歌われることになるのですが、その経緯を確認しましょう。

 「海行かば」の作曲者は山田耕筰と様々な意味でライバルだった信時潔です。彼は牧師の子として生まれ、賛美歌が彼の音楽の出発点にあります。東京音楽学校出身で、ドイツに留学し、ドイツ古典派、ロマン派の音楽を学びました。ですから、雅楽調の「君が代」と違って、「海ゆかば」は正統的な西洋音楽に基づいて1937年に作曲されています。そして、彼は1940年には慶応義塾塾歌を作曲しています。私は塾歌を何度も聞いてきましたが、二つの曲がよく似ていて、重なる部分がとても多いと感じられるのです。その理由を探るうちに気づいたことですが、信時は私の小学校(現妙高市立新井小学校)の校歌「頸城野の光あつめて」の作曲者でもあったのです(校歌の作詞は巽聖歌で、「たきび」の作詞者です)。小学生の私は信時が作曲したことなどまるで知りませんでしたが、何度も歌った校歌の残響がいまだ脳内にあるのかも知れません。

 「海行かば」は大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として、放送協会の嘱託を受けた信時が作曲しました。本来は、国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲でした。歌詞を無視すれば、賛美歌風の「海ゆかば」は日本放送協会の委嘱で作られました。真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が報道された際や、連合艦隊司令長官山本五十六の戦死発表、アッツ島玉砕など悲劇的なニュースの際に演奏されるなど、次第に「鎮魂歌」として人びとの心に刻まれていきますが、学徒出陣では壮行歌として使われました。

 「海行かば」は「国民歌謡」と呼ばれましたが、その初回の放送は1936年JOBK大阪放送局で始まりました。月曜から土曜の5分番組としてスタートし、6月15日からの第三週はJOAK島崎藤村作詞の「朝」で、歌唱はテノール歌手永田絃次郎。これが国民歌謡のヒット曲第一号となりました。「朝」に続くヒット曲は同じく島崎藤村作詞の「椰子の実」で、7月13日から放送された。この曲を最初に歌ったのが東海林太郎で、今までクラシック系の歌手を起用していた国民歌謡としては斬新な試みでした。

 1937年の新年早々に出た「月の出島」が好評で、これは佐藤惣之助の詩に内田元が曲を付けたものです。内田は続いて、「春の唄」を作曲しました。3月1日から月村光子の歌で放送され、多くの人々に愛唱されました。JOAKでは「牡蠣の殻」の評判がよかったのですが、やはり「新鉄道唱歌」(作詞土岐善麿、作曲堀内敬三)が一番でした。好評であったため、続編が数々つくられました。相馬御風も「直江津-金沢」を作詞しています。

 1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると、歌の世界も戦時色が濃くなり、国民歌謡の本来の主旨とは違った方向へ曲げられ始めます。そして、放送されたのが「海行かば」でした。1938年になると、国民歌謡は昼の番組から夜の番組に変わります。そして、「国民唱歌」というタイトルで、「愛国行進曲」の指導が始まり、「国民歌謡」が「国民唱歌」という題に変わったようですが、また「国民歌謡」に戻ります。しかし、2月11日、20日にはまた「国民唱歌」が放送されています。国民歌謡と国民唱歌の間で揺れ動いたことがわかります。その背後では「海行かば」を第二の儀礼的国歌としたかったという思惑がありました。

 どのような資格をもつ歌かなど、歌そのものとは無関係の社会的、歴史的な事柄を除いてしまうなら、出てくる私の自分勝手で、依怙贔屓の意見は次のようなものです。「海行かば」が歌詞なしの、例えば弦楽四重奏として演奏されるなら、それはとても異なる印象を人々に与える筈です。「君が代」が歌詞の主張に重点が置かれるべきであるなら、「海行かば」はメロディーの音楽性にこそ重点が置かれるべきなのです。