国歌、軍歌、それとも鎮魂歌、はたまた準国歌?

(同じタイトルでこれまで3回にわたって書いたものを加筆修正したものです。)

(1)

 「君が代」や「海行かば」に対してこんなタイトルをつけて扱うのは何とも不遜で、無礼な気がするのは私だけではない筈です。とはいえ、このタイトルは私が二つの曲について曖昧な事情しか分からず、イライラが募るだけだったことを白状しているようなものなのです。タイトルは私の個人的な心理状態をそのまま表していると考えて下さい。

 まずは、「海行かば」。作曲した信時潔の自筆譜では「海ゆかば」ですが、大伴家持長歌では「海行かば」で、タイトルだけでもどちらとも言い難いように、この歌がどのような歌かについては雑音ばかりの中で、静かにこの歌の本質を知りたいというのが私の望みなのです。そんな風に望むのは私だけではない筈です。とりわけ、私を含めた戦後生まれの人々はこの歌の流行した戦時下の状況を経験しておらず、広沢虎造浪曲を知らない世代が彼の浪曲を語るがごとく、「海行かば」の本性を語ることは隔靴掻痒の感があり、まるで判然とせず、何とも苛立たしい限りなのです。一方の「君が代」は紛れもなく、日本の国歌。でも、音楽の授業を受ければ受けるほど、「君が代」は不思議な旋律をもっていて、そのためか歌詞も曖昧模糊な印象を持ってしまうのです。実際、団塊の世代の私は小学校や中学校で「君が代」の歌詞の説明を受けた覚えがないのです。

 このような白黒のはっきりしない結果をもたらす二曲に対して、物分かりよく引き下がるのも癪なので、作品がつくられた当時の状況を知らない私に何が語れるか、まるで自信はないのですが、好奇心に従って無手勝流で探ってみましょう。鍵は曲と歌詞を分けてみること、つまり、作曲時と作詞時の状況をそれぞれ見直してみることだと思っています。

 まず、「君が代」の成立を歌詞と曲のそれぞれについて見ておきましょう。「君が代」の歌詞は10世紀初頭の勅撰和歌集古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としていて、1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっています。

 「君が代」の旋律は雅楽旋法で作曲されているということですが、実際多くの人は「君が代」を聞いて雅楽を想起、連想するのではないでしょうか。でも、日本の伝統音楽の音組織に基づく旋律なのに、西洋の調性音楽による和声付けが施されています。ですから、「君が代」は日本と西洋のハイブリッドであり、この調性による編曲によって一般に広く演奏されています。

 1880年明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1914年海軍礼式令施行後、「君が代」は事実上国歌として扱われてきました。法制上はそれから100年ほど後の1999年、「君が代」は「日の丸」とともに日本国歌、日本国旗として可決されました。何とこれが法制上の正式な最初の国歌決定だったのです。

 「君が代」の歌詞は『古今和歌集』からで、その初句は「我が君は」で、国歌の歌詞とは違っています。

 

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

(わが君には千年も八千年も長生きしてください。あの小さな石が大きくなって岩となり、その岩に苔が生えるまで。)

 

 文献上の一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最も古いとされ、『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっていますが、後世の版本は「君が代」が多くなります。

(補足)

 明治維新後、薩摩に来たイギリス歩兵隊の軍楽隊から、日本を代表するような曲はないかと打診され、薩摩の歩兵隊長を勤めていた大山巌は、自ら愛唱していた薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲の一部である「君が代」を推薦しました。その歌詞にイギリス陸軍の軍楽隊長フェンライトが曲を付けたのが最初の「君が代」でした。しかし、歌詞と曲がしっくりせず、改めて雅楽課に作曲の依頼がありました。

 雅楽課の奥好義が日本古来の旋律をもとにまとめたものを、上司の林広守が補作して曲として完成させます。これが現在の「君が代」の始まりとされています。これに洋学の和声を付けたのがドイツのフランツ・エッケルトです。

 雅楽の中には古代歌謡の「催馬楽」、「朗詠」があります。「催馬楽」は九世紀から十世紀にかけて地方の風俗色豊かな民謡を題材にして歌われたもので、「朗詠」は『和漢朗詠集』の中の漢詩に節をつけて歌われました。どちらも歌詞と旋律が密接につながった現在の歌曲とは違っていて、「催馬楽」、「朗詠」の歌唱から歌詞を聴きとることは至難です。西洋音楽の技法で作曲された近代的な歌謡と、「催馬楽」や「朗詠」とでは根本的に考え方が異なり、「催馬楽」や「朗詠」では歌詞と旋律の不一致は普通のことだったのです。

 宮内省の楽師たちは「催馬楽」、「朗詠」など雅楽を最初に学び、後になって西洋音楽を学んだ人たちですから、彼らの作った「君が代」が雅楽調になるのは不思議ではなく、雅楽調「君が代」は何の抵抗もなく社会に受け入れられました。

 例えば、「さざれ石の」はワンフレーズですが、「サザレー|イシノー」と切れて、「サザレー」が何を意味しているのかまるで不明になり、「イシノー」は普通の日本人には「石の」ではなく、「意志の」に聞こえてしまいます。多くの人はこのような経験をしていて、それは普通とは違うと感じている筈で、それが国歌「君が代」の不思議な魅力にもなっているのです。私自身、小学生の頃は「千代にい八千代に」と歌っていて、「千代にい」は「八千代を形容していると信じ込んでいました。

 

(2)

 『古今和歌集』(905年)の「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「詠み人知らず」となっていますが、実際は文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王に仕えていた木地師が詠んだものでした。木地師だったため、「詠み人知らず」という扱いになりました。この歌は『古今和歌集』では貴族たちの慶賀の歌として紹介されましたが、その後に編纂された『新撰和歌集』(紀貫之撰)や『和漢朗詠集』にも転載されていて、名歌であることがわかります。そして、「日本の象徴である天皇陛下のもとで、この国の平和な治世がいつまでも続きますように」というのが「君が代」の歌詞の意味だというのが現在の一般的な理解になっています。

 さて、時代を遡って、聖徳太子聖武天皇国分寺東大寺大仏となれば、仏教の教義による国家統治、いわゆる鎮護国家の思想が思い起こされます。今様に言えば、その思想は緩やかな仏教原理主義と言えます。

 まず、『続日本紀』を見てみましょう。749年2月22日、陸奥国より初めて黄金が献上され、4月1日には聖武天皇東大寺行幸し、造営中の盧舎那仏の正面に対座しました。そこで左大臣橘諸兄が勅を受けて、仏前に天皇のおことばを表白、続いて中務卿石上乙麻呂が長文の宣命を読み上げたのです。この宣明は『続日本紀』の宣命の中で最長で、聖武天皇の興奮が伝わってきます。これが「陸奥国出金詔書」で、同日、越中国大伴家持従五位下から従五位上を授けられます。

 家持はこの詔書にいたく感動し、5月12日家持の長歌中最長の「陸奥国出金詔書を賀く歌」と反歌三首を完成させます(『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番))。

 「陸奥国出金詔書」によれば、「陸奥国の国守で、従五位上百済王敬福が、管内の小田郡に黄金が出ましたと申し、献上してきた」とあり、百済王敬福はこの日に従三位を授けられています。そして、この長い詔勅の中に大伴・佐伯氏の「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍」が先祖の功績として述べられています。大伴家持の生きた時代は内乱の危機をはらんだ政治的動揺の時代でした。聖武天皇は、こうした事態を憂え、救いを仏教に求め、仏教布教のシンボルとして東大寺大仏の建立を始めます。そのさなかに、奥州で金が発見され、大仏建立のために寄進されることになったのです。感激した聖武天皇は、東大寺に赴いて、宣命を発し、黄金の発見が皇祖の恵であることを述べ、人民にその恵を分かち与えるとともに、臣下の労をねぎらったのです。その際に、大伴、佐伯の二氏に対して、天皇への忠誠をあらためて訴えました。大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、特別な家柄でした。物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきました。この内乱の危機をはらんだ時代を憂えた天皇は、あらためて両氏に忠誠を求め、宣命の中で次のように表現しました。

 「大伴佐伯の宿禰は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(『続日本紀』)」

 この時、家持は越中にいたのですが、使者を通じて宣命贈位を知ります。感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えました。これが『万葉集』にある「賀陸奥国出金詔書歌」です。

 この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の自負が鮮やかに表れていて、古代の氏族の意識の一端に触れることができます。上記の宣明に対応して「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍大王の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ(海に行ったならば 水に漬かった屍(死体)になり 山に行ったならば 草の生えた屍になって 天皇の お足元で死のう 後ろを振り返ることはしないぞ)」と述べています。「詔書を賀く歌」と題している通り、天皇詔書そのものを讃え、詔書の内容をところどころ引用しながら、皇室の尊厳と伴造としての一族の忠誠を高らかに歌い上げています。詔書そのものには、聖武天皇が自らを仏の奴とみなし、仏教への言及があるのですが、家持の歌は『古事記』にあるような古代のイメージに占められていて、仏教への言及はありません。

 このような経緯を見てくると、天皇家と大伴家の主従関係が再確認され、大仏建立を通じた鎮護国家への歩みの一端が浮かび上がってきます。そして、そこに「海行かば…」の表現が登場することがわかります。この歴史的な表現が昭和の時代に「海行かば」という歌の歌詞として使われることになります。

 

(3)

 天皇家と大伴家の主従関係は強く、それを再確認するような家持の長歌の一部が「海行かば…」でした。その「海行かば」が歌詞になり、第二次大戦中に「海ゆかば(信時の自筆楽譜)」として作曲され、人々に歌われることになるのですが、その経緯を確認しておきましょう。

 「海行かば」の作曲者は山田耕筰と様々な意味でライバルだった信時潔です。山田がキリスト教の伝道師の子であるのに似て、信時は牧師の子として生まれます。ですから、賛美歌が彼の音楽の出発点にあります。信時は山田と同じく東京音楽学校出身で、ドイツに留学し、ドイツ古典派、ロマン派の音楽を学びました。ですから、雅楽調の「君が代」と違って、「海ゆかば」は正統的な西洋音楽に基づいて1937年に作曲されています。そして、彼は1940年には慶応義塾塾歌を作曲しています。私は塾歌を何度も聞いてきましたが、二つの曲がよく似ていて、重なる部分がとても多いと感じられるのです。その理由を探るうちに気づいたことですが、信時は私の小学校(現妙高市立新井小学校)の校歌「頸城野の光あつめて」の作曲者でもあったのです(校歌の作詞は巽聖歌で、「たきび」の作詞者です)。小学生の私は信時が作曲したことなどまるで知りませんでしたが、何度も歌った校歌の残響がいまだ脳内にあるのかも知れません。

 「海行かば」は大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として、日本放送協会の嘱託を受けた信時が作曲しました。本来は、国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲でした。歌詞を無視すれば、賛美歌風の「海ゆかば」は真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が報道された際や、連合艦隊司令長官山本五十六の戦死発表、アッツ島玉砕など悲劇的なニュースの際に演奏されるなど、次第に「鎮魂歌」として人びとの心に刻まれていくことになります。さらに、1943年の学徒出陣では壮行歌として使われました。

 「海行かば」は「国民歌謡」と呼ばれましたが、国民歌謡の初回の放送は1936年JOBK大阪放送局で始まりました。月曜から土曜の5分番組としてスタートし、6月15日からの第三週はJOAK東京放送局島崎藤村作詞の「朝」で、歌唱はテノール歌手永田絃次郎。これが国民歌謡のヒット曲第一号となりました。「朝」に続くヒット曲は同じく島崎藤村作詞の「椰子の実」で、7月13日から放送されました。この曲を最初に歌ったのが東海林太郎で、今までクラシック系の歌手を起用していた国民歌謡としては斬新な試みでした。

 1937年の新年早々に出た「月の出島」が好評で、これは佐藤惣之助の詩に内田元が曲を付けたものです。内田は続いて、「春の唄」を作曲しました。3月1日から月村光子の歌で放送され、多くの人々に愛唱されました。JOAKでは「牡蠣の殻」の評判がよかったのですが、やはり「新鉄道唱歌」(作詞土岐善麿、作曲堀内敬三)が一番でした。好評であったため、続編が数々つくられました。相馬御風も「直江津-金沢」を作詞しています。

 1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると、歌の世界も戦時色が濃くなり、国民歌謡の本来の主旨とは違った方向へ曲げられ始めます。そして、そのような中で放送されたのが「海行かば」でした。1938年になると、国民歌謡は昼の番組から夜の番組に変わります。そして、「国民唱歌」というタイトルで、「愛国行進曲」の指導が始まり、「国民歌謡」が「国民唱歌」という題に変わったようですが、また「国民歌謡」に戻ります。しかし、2月11日、20日にはまた「国民唱歌」が放送されています。このような経緯は国民歌謡と国民唱歌の間で人々の考えが揺れ動いていたことがわかります。そして、その背後では「海行かば」を第二の儀礼的国歌としたいという思惑がうごめいていました。

 どのような種類、資格の歌かなど、歌そのものとは無関係の社会的、歴史的な事柄を除いて判断するなら、そこから出てくる私の自分勝手で、依怙贔屓の意見は次のようなものです。「海行かば」の歌詞は当時の状況から軍国主義的だと評価されるのですが、誰も大伴家持の歌が軍国主義的だとは思わない筈です。「海行かば」が歌詞なしの、例えば弦楽四重奏として演奏されるなら、それはとても異なる印象を人々に与える筈です。また、「君が代」の歌詞だけを和歌として味わうなら、人はやはり随分と異なる印象をもつ筈です。「君が代」のメッセージが雅楽調の曲より、歌詞の主張にあるのだとすれば、「海行かば」のそれは歌詞ではなく、メロディーの音楽性にこそあるのです。

 ポピュラー音楽では自由にカバー曲が演奏され、時にはカバー曲の方が有名になります。国歌の「君が代」は無理でも、「海行かば」ならば、そのカバー曲がもっと自由に作られ、演奏されるなら、どのようになるのか、想像するだけでも私には楽しいことです。