国歌、軍歌、それとも鎮魂歌、はたまた準国歌?(1):補足

 明治維新後、薩摩に来たイギリス歩兵隊の軍楽隊から、日本を代表するような曲はないかと打診され、薩摩の歩兵隊長を勤めていた大山巌は、自ら愛唱していた薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲の一部である「君が代」を推薦しました。その歌詞にイギリス陸軍の軍楽隊長フェンライトが曲を付けたのが最初の「君が代」でした。しかし、歌詞と曲がしっくりせず、改めて雅楽課に作曲の依頼がありました。

 雅楽課の奥好義が日本古来の旋律をもとにまとめたものを、上司の林広守が補作して曲として完成させます。これが現在の「君が代」の始まりとされています。これに洋学の和声を付けたのがドイツのフランツ・エッケルトです。

 雅楽の中には古代歌謡の「催馬楽」、「朗詠」があります。「催馬楽」は九世紀から十世紀にかけて地方の風俗色豊かな民謡を題材にして歌われたもので、「朗詠」は『和漢朗詠集』の中の漢詩に節をつけて歌われました。どちらも歌詞と旋律が密接につながった現在の歌曲とは違っていて、「催馬楽」、「朗詠」の歌唱から歌詞を聴きとることは至難です。西洋音楽の技法で作曲された近代的な歌謡と、「催馬楽」や「朗詠」とでは根本的に考え方が異なり、「催馬楽」や「朗詠」では歌詞と旋律の不一致は普通のことだったのです。

 宮内省の楽師たちは「催馬楽」、「朗詠」など雅楽を最初に学び、後になって西洋音楽を学んだ人たちですから、彼らの作った「君が代」が雅楽調になるのは不思議ではなく、雅楽調「君が代」は何の抵抗もなく社会に受け入れられました。

 例えば、「さざれ石の」はワンフレーズですが、「サザレー|イシノー」と切れて、「サザレー」が何を意味しているのかまるで不明になり、「イシノー」は普通の日本人には「石の」ではなく、「意志の」に聞こえてしまいます。多くの人はこのような経験をしていて、それは普通とは違うと感じている筈です。