祝日「海の日」は7月の第三月曜日で、海の恩恵に感謝する日です。海から離れたところで育った私には海とは縁遠いのですが、それでもこの日には「海行かば」が思い出されるのです。
天皇家と大伴家の主従関係を再確認するような家持の長歌の一部が「海行かば」の歌詞になり、第二次大戦中に「海ゆかば(信時の自筆楽譜)」として作曲され、人々に準国歌のように歌われることになりました。「海行かば」の作曲者は山田耕筰のライバルだった信時潔です。山田がキリスト教の伝道師の子であるのに似て、信時は牧師の子として生まれます。ですから、賛美歌が彼の音楽の出発点にありました。信時は山田と同じく東京音楽学校出身で、ドイツに留学し、ドイツ古典派、ロマン派の音楽を学びました。ですから、雅楽調の「君が代」と違って、「海ゆかば」は正統的な西洋音楽に基づいて1937年に作曲されています。そして、彼は1940年には慶応義塾塾歌を作曲しています。私は塾歌を何度も聞いてきましたが、二つの曲がよく似ていて、重なる部分がとても多いと感じられるのです。その理由を探るうちに気づいたことですが、信時は私の小学校(現妙高市立新井小学校)の校歌「頸城野の光あつめて」の作曲者でもありました(校歌の作詞は巽聖歌で、「たきび」の作詞者です)。小学生の私は信時が校歌を作曲したことなどまるで知りませんでしたが、何度も歌った校歌の残響がいまだ脳内にあるのかも知れません。
「海行かば」は大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として、日本放送協会の嘱託を受けた信時が作曲しました。本来は、国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲でした。歌詞を無視すれば、賛美歌風の「海ゆかば」は真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が報道された際や、連合艦隊司令長官山本五十六の戦死発表、アッツ島玉砕など悲劇的なニュースの際に演奏されるなど、次第に「鎮魂歌」として人びとの心に刻まれていくことになります。1943年の学徒出陣では壮行歌として使われました。
「海行かば」が歌詞なしの、例えば、弦楽四重奏として演奏されるなら、それはとても異なる印象を人々に与える筈です。また、「君が代」の歌詞だけを和歌として味わうなら、人はやはり随分と異なる印象をもつ筈です。「君が代」のメッセージが雅楽調の曲より、歌詞の主張にあるのだとすれば、「海行かば」のそれは歌詞ではなく、メロディーの音楽性にこそある、と私は勝手に思っています。とはいえ、そんなことを声高に叫ぶより、海の日の「海行かば」は騒然としたままの世界の中の僅かな息抜きに感じられるのです。
海の日や海に鎮もる「海ゆかば」(河本由紀子『春燈』2013、10)
海の日にひとり聴き入る「海行かば」