初期仏教から大乗仏教へ

 仏教は長い歴史をもつ。仏教誕生後の歴史の中で私たちにとって特筆すべき三つの事柄は大乗仏教の勃興、その中国化、そして、鎌倉新仏教の誕生。まずは、原始仏教大乗仏教の誕生を見ておこう。

  釈迦が生まれたのは2500年程前の紀元前5世紀(縄文時代の終わり)で、彼の一生は阿含(あごん)経典群に述べられている。釈迦は自らの思想を語るだけだが、これは昔の思想伝達の普通の方法で、釈迦が亡くなった後も暫くはこの口伝が続いた。釈迦が亡くなった後に、弟子たちが自分たちの記憶を整理し、これを経典としてまとめた。

 釈迦の教えのエッセンスは宇宙の真のしくみを知り、それによって心の平和を得ること。「宇宙の真のしくみ」、「心の平和」といった抽象的な表現は何を意味するのか。「事物は常に変化し、不変のものはない(諸行無常)」が宇宙の真のしくみとされ、これが仏教の第一義。そのもとで、命を大切にすること、偶像崇拝を禁止し、人間を平等に扱うこと、自分で物事を考え、自分の責任で行動すること、死者に関する儀式(葬式)の禁止などが、心の平和を得る方法と捉えられている。

 命を大切にすることは不殺生戒として今の仏教にも残っている。偶像崇拝の禁止によって最初の500年程は仏像などなく、釈迦の骨(仏舎利)以外に拝むものがなかった。仏教徒が仏像を拝むのは釈迦が死んで400年以上経ってからのことである。

 人間を平等に扱うことはカースト制度と両立しない。インドのカースト制度は厳しい身分制度だが、その最も下のシュードラという階級に属するウパーリ(優波離)という弟子がリーダーとして教団を指導したという経典の記述があり、釈迦の仏教教団はカースト制度を基本的に無視していた。  

 自分で物事を考え、自分の責任で行動するという個人主義によれば、悟りをひらくのは自分自身のこと。実際、釈迦の死後、仏教は統一教義をもっておらず、したがって、異端の概念もない。ただし、この宗教的個人主義は議論のあるところで、後に個人主義自体が間違いであるとする反対意見が出て、大乗仏教の登場という歴史上の大事件が起こる。このことから、初期の仏教教団は宗教的な共同体ではなく、個人主義を基本にした修行集団だったとみるべきだろう。

(*)キリスト教イスラム教での集団と個人の関係と、上述の原始仏教の集団の場合とは何がどのように異なるのだろうか。

 葬式の禁止は上座部の経典に釈迦の言葉として述べられている。釈迦は自分の教えが生きている人のためのものであり、弟子たちには死者には関わるなと厳しく諭している。インドには輪廻転生という考え方があり、釈迦はその輪廻転生が生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていた。釈迦の考えた仏教はあくまで生きている人間のためのものであり、葬式や法事は仏教とは無関係だった。

 釈迦が亡くなったすぐ後に、弟子たちの記憶にある釈迦の教えを確認し、まとめた結果が初期経典で、どれも口伝。後に経典は「如是我聞(私はこう聞きました)」という謂い回しで始めるという約束ができ、口伝形式の経典は一定の書式の書物になっていく。

 キリスト教イスラム教などでは、教義を一つにして皆で同じ教えを信じるために何度も話し合いや論争をしているが、仏教では一度もこのような教義についての議論は行われなかった。したがって、「如是我聞」で始めれば何を言っても仏教の経典として認められることになった。そのため、仏教の経典は莫大な数になり、諸説乱立の可能性が最初からあった。

 異質な考えが混入した証拠が現在の仏教に残っている。初期仏教の段階からバラモン教の神々が多数紛れ込んでいる。例えば、四国の金毘羅様の正体はガンジス河のワニ。そのほかにも弁財天、帝釈天、水天宮などの「天」のつく仏の正体はすべてバラモン教の神。これにはそれなりの理由がある。新興の仏教教団がバラモン教などの既存の教団からいじめられ、妥協の結果、このような神様も認めてしまったのである。

 紀元前3世紀にインドのマウルヤ朝のアショーカ王が仏教の庇護に努め、仏教の信仰が広がる。原始仏教の教えを説いた経典は『阿含経』という一連の経典。仏教建築としてのストゥーパ(仏塔、日本の五重塔の原型)が作られ始めたのもこの頃。さて、キリストが生まれた頃に仏教教団内で宗教改革運動が起こる。それまでの仏教の修行は個人的なもので、結局は自分自身の悟りしか考えていないものだった。そこに、もっと人間全体を救う方向に変えていくべきだ、という意見が出てくる。出家者が自分のことだけを考えて在家(出家していない仏教の信者)の人を締め出し、自分だけ修行に励むという姿勢では決して本当の悟りは得られないという信念に基づいて、一方的に従来の仏教を小さい乗り物(小乗)、自分たちを大きい乗り物(大乗)と呼び、仏教が大きく二派に分裂した。

 大乗仏教の成立は二つの意味を持つ。一つは釈迦の本来の考えから別れ、独自の道を歩み始めたということ。もう一つは仏教のプロが登場すること、すなわち、僧侶の誕生。この改革は仏教が唯一の教義をもたないだけに一歩間違えば全く別の宗教になる危険をもっていた。今日の日本仏教の原型はこの大乗仏教にある。

 大乗仏教が誕生した結果、釈迦の思想の継承だけでなく、独自の哲学思想として膨大な大乗経典が生まれる。極楽浄土というユートピアが発案されたのもこの頃。このような新しい動きによって多様な考え方が生まれ、仏教に哲学的な深みが加わっていった。

 西暦1世紀にインド北部のクシャーナ族というイラン系の民族が南下し、インド北部に侵入し、大乗および上座部を含めた仏教全体の歴史を変える大事件が起こる。ガンダーラ地方では大虐殺が行われ、ガンダーラ地方の人々は仏教に救いを求めた。仏教を信じるガンダーラの人々は、苦しい状況の中で釈迦の姿を見たいとの強い想いから釈迦の姿を石に刻んで拝むことを始めた。これがガンダーラで仏像が生まれた理由で、釈迦の死後500年ほど経った後のことだった。

(*)聖典や偶像について、キリスト教イスラム教と仏教とを比べた場合、何が同じで、何が異なるだろうか。