秘仏の正体(2):法隆寺夢殿救世観音像

 救世観音像が祀られる法隆寺の夢殿は、739(天平11)年の『法隆寺東院縁起』の記述によれば、僧行信によってその頃に創建されたものと見られています。夢殿が天平年間に造られて以来、救世観音像はその本尊として同じ場所に安置されてきました。

 救世観音像は聖徳太子の等身の観音、即ち、太子の像として祀られていたようです。夢殿は聖徳太子を供養するお堂であり、「太子等身の観音像」ですから、救世観音像は夢殿創建以来、秘仏的に祀られていたと考えることができます。観音像が聖徳太子の怨霊を象徴しているとなれば、白布に包んで怨霊を封じ込める必要があったのかも知れません。

 救世観音像の祀られている姿の記述がある最も古い記録は平安時代のもので、大江親通が記した『七大寺日記』(1106)によれば、救世観音は宝帳のなかに安置されていて、拝見し難いとはいえ、その姿は具体的にわかったようです。等身、俗形で、宝珠を持する印相についてまで判っていたようです。いずれにせよ、平安時代、救世観音像は秘されていても、まだ完全には秘仏化されていなかったことがわかります。

 しかし、鎌倉時代以降、次第に厳重な秘仏に近い祀られ方になっていき、像の尊容もはっきりしなくなっていったようです。江戸時代の元禄年間に、救世観音の厨子の再興が行われます。1696(元禄9)年の『年会日次記』に、厨子の屋根の継ぎ足しなどの再興が行われたとの記述があります。この厨子の再興の際に、厨子に扉が取り付けられたようです。そして、その扉が閉じられ、終には厳重秘仏化しました。

 1719(享保4)年の『法隆寺佛閣霊佛宝等目録』には、「(夢殿)本尊観音 往古より秘尊なり」と記されています。さらに、天保年間の記録によれば、救世観音に「白布が巻かれていた」という記録が現われるのです。フェノロサ岡倉天心が、埃にまみれて解いていったあの白布です。

 フェノロサと共に救世観音の白布を解いた岡倉天心の終焉の地は赤倉です。若き天心が救世観音の姿に何を見たのでしょうか。聖徳太子の等身の仏像を祀った法隆寺は、607(推古天皇15)年、聖徳太子によって創建されたと伝えられます。太子は仏教の真理を深く追求し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整え、この国の文化的な基盤を築き上げました。その聖徳太子法隆寺について書かれた梅原猛の評論『隠された十字架』(1972(昭和47)年、新潮社)の副題は「法隆寺論」で、法隆寺は国家鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたというのがその主張でした。救世観音は太子の怨霊の鎮魂のためのものであり、秘仏化される十分な理由となります。その主張を裏付けるかどうかは別にして、平安時代秘仏的に祀られていた救世観音像が、鎌倉期以降秘仏化されていき、江戸時代の元禄年間に厨子に扉が設けられたのを機に、厳重に厨子の扉が閉じられるようになり、救世観音像の仏体を白布で覆い隠すことも行われるようになりました。

 明治時代になり、新たなる政府の古社寺宝物保存方針のもと、フェノロサ、天心の手によって、絶対秘仏の厳重なる厨子の扉が、開かれることになり、現在は春と秋の二回、特別公開されています。ですから、三大秘仏の「善光寺阿弥陀如来像」、「東大寺二月堂の十一面観音菩薩像」、「浅草寺聖観音菩薩像」とは違って、私たちは救世観音像を自身の眼で見ることができます。