秘仏と御開帳(1)

 全国に「善光寺」という名の寺院が多数存在します。鎌倉時代に「善光寺聖」が全国に善光寺信仰を広めたからです。善光寺聖は諸国を遊歴する半僧半俗の遊行僧で、彼らは信州から遠く離れたところまで「善光寺如来」の分身を背負って出かけ、信仰を広げました。善光寺聖は鎌倉時代に最も活躍し、江戸時代に入ると、信州善光寺から前立本尊が出張する出開帳に変わります(出開帳とは善光寺の前立本尊を寺外で公開することです)。善光寺聖の活躍によって、信州善光寺は全国に知れ渡り、各地に善光寺という名前の寺ができました。現在でも200以上の善光寺があり、多くの寺の本尊は善光寺聖が運んだ善光寺如来です。善光寺如来は日本最古の仏像とされる信州善光寺の本尊を模した阿弥陀如来像のことです。

 信州善光寺では七年に一度前立本尊の御開帳が行われ、それと同時に元善光寺甲斐善光寺、岐阜善光寺、関善光寺善光寺東海別院でも御開帳を行い、これが六善光寺同時開帳です。善光寺御開帳開催期間は令和4年4月3日(日)~6月29日(水)です。武田信玄が創建した甲斐善光寺甲府市)で公開される本尊は、信州善光寺の「前立本尊」より古いとされます(銅造阿弥陀如来及両脇侍立像、重要文化財)。

 さて、関山神社の本殿に祀られている主尊銅造菩薩立像は飛鳥時代(6-7世紀)に朝鮮(百済)から伝来したとされ,法隆寺釈迦三尊像(623年)より古いとも推測されます。文殊菩薩像は江戸時代の作,十一面観音菩薩像は南北朝期から室町時代の作とされています。明治期の神仏分離政策の下で三体の像は見ると目がつぶれるという伝承とともに「秘仏」とされましたが,昭和三十六年(1961)に開封、本殿に安置されました。関山神社は江戸時代まで「関山権現社」と呼ばれ、三体の仏像を本尊としていました。

 妙高堂の阿弥陀三尊像は中尊が銅造阿弥陀如来立像、左尊が観音菩薩像、右尊が勢至菩薩像です。「善光寺式」と呼ばれる三尊像で、木曽義仲が治承5年(1181)に妙高山頂に奉納したと伝えられています。妙高堂は「関山神社善光寺」とも呼ばれ、阿弥陀三尊像が安置されています。

 「隠す仏、隠れる仏」などと表現される、仏像を隠すことの目的は一体何なのでしょうか?秘仏は「a Buddhist statue rarely shown to the public、a hidden Buddhist statue」などと訳されますが、秘仏は謎に包まれたままです。偶像を信仰の対象として崇拝するのが偶像崇拝。偶像は神像や仏像などで、信仰の対象として作られたものです。また、偶像には偽物、虚像という意味もあり、実体のないものをやみくもに崇拝するという、良くない意味合いも持っています。そのため、偶像崇拝を呪物崇拝と言って否定する人もいます。

 旧約聖書では、神はモーゼに神の指で書かれた十戒を預け、偶像崇拝を禁じました。ユダヤ教キリスト教イスラム教などでは偶像崇拝は否定されます。一方、正教会に見られる平面のイコン、カトリックに見られる聖画像のように、聖なるものとして絵画などが使われる宗派もあります。聖なるイコンは信仰の対象ではなく、信仰の媒介として理解されています。なんだかとても中途半端な気がします。

 そこで、あらためて「わざわざ偶像をつくり、祀りながら、それを隠す理由は何か」を善光寺御開帳の時期に考えてみることにしましょう。