秘仏の中の秘仏

 日本三大秘仏は「善光寺阿弥陀如来像」、「東大寺二月堂十一面観音菩薩像」、「浅草寺聖観音菩薩像」で、どの仏像も誰もが永遠に見ることができない「絶対秘仏」です。

 1869年明治政府の社寺役が強引に廚子を開け、浅草寺の観音像はその存在が確認されました。善光寺の本尊も江戸時代存在が疑われ、1692年高僧敬諶(けいたん)が検分し、多くの人々が像を目撃しました。東大寺の観音像は江戸時代火災に遭い、その際持ち出されましたが、焼けた破片が奈良国立博物館に保存されています。絶対秘仏も垣間見られたことがある訳ですが、より詳しく見てみましょう。

 まずは、東大寺二月堂の本尊十一面観音像です。二月堂の本尊は大小二躰の十一面観音像とされ、「大観音(おおがんのん)」、「小観音(こがんのん)」と呼ばれています。二月堂は752(天平勝宝4)年の創建とされ、二月堂の内陣には大小二躰の十一面観音が安置されています。二つの観音像がいつごろから秘仏化されたのかは不明ですが、二月堂の本尊も全国各地の仏像が秘仏化されていった南北朝から室町期に秘仏化されたのではないかと推測されています。何故だか大観音像の光背の壊れた断片が奈良国立博物館に寄託保管されているのです。この光背断片は建築史学者の関野貞が明治33年(1900)頃に法華堂前の経庫を調査したときに発見したものです。発見された光背断片は、この火災の時に破損した大観音の光背でした。では、二つの秘仏、十一面観音像の姿を伺い知ることはできるのでしょうか?まず、小観音像ですが、『類秘抄』という図像集にこの像の姿を示すと思われる図像が描かれているのです。奈良国立博物館の収蔵品データベースに奈良博蔵『類秘抄』が掲載され、小観音とみられる画像も掲載されています。大観音像の方も大観音の頭部のかたちを写し取った図像があります。高野山西南院本『覚禅抄』の十一面巻裏書に十一面観音の図像が二躰掲載されています。

 善光寺の御本尊は一光三尊の阿弥陀如来像で、既に詳しく述べました。本尊は飛鳥時代に伝来した一光三尊形式の金銅三尊仏像とされ、それは本尊の姿を模した「善光寺阿弥陀如来像」の姿から推察されています。善光寺阿弥陀如三尊像は鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造像され、全国に200体以上の作例が残されていて、善光寺にも鎌倉時代善光寺式一光三尊の姿のお前立本尊が祀られています。お前立本尊も秘仏になっていて、7年に一度ご開帳が行われ、その際は参詣の人々がたくさん詰めかけます。厳重秘仏としてされてきたご本尊なのですが、江戸時代に一度だけ厨子が開かれたことがあります。1692(元禄5)年に柳沢吉保の仲介で、敬諶が秘仏善光寺本尊を検分したということが『善光寺由来記』に記されています。それによると、像高一尺五寸、重量六貫三匁だったそうです。

 浅草寺の御本尊は聖観音像です。寺伝や縁起によると、628(推古36)年に、墨田川で漁師の網にかかった金色の仏像を、土師中知(はじのなかとも)が堂を建て祀ったのが、浅草寺のはじまりと伝えます。その後、東国を巡遊していた勝海上人が、645(大化元)年に本堂を再建し、観音の夢告により本尊を秘仏と定め、以来今日まで、他見を許さない絶対秘仏とされていると伝えられています。明治維新後間もない1969(明治2)年、神仏分離令に伴う社寺局の本尊改めがあり、役人が縁起閲覧、秘仏開扉を強引に要求しました。浅草寺はやむなく承諾。当時、秘仏の本尊は実は神体であるとの噂が立っていたのですが、改めで仏像であることが確認され、役人は大切に護持するよう申しつけたと伝えられています。浅草寺のお前立本尊は慈覚大師円仁の作という木彫像で、平安時代の仏像のようです。お前立本尊の方も秘仏で、毎年12月13日御宮殿の煤払い開扉法要の際、短時間だけ開扉されます。

 こうして三大秘仏のどれもが実在することは確認できているようです。仏像自体の破損はあるようなのですが、何とも歯がゆいことに手出しすることができません。