信仰と観光:善光寺の巧みな宗教的経営

 善光寺飛鳥時代の創建とされる国内でも有数の古刹で、「善光寺参り」として庶民の侵攻と観光が見事に合致したツアーとなってきました。善光寺の歴史は仏教伝来の552年まで遡り、朝鮮の百済国国王であった聖明王から、インドより伝わったとされる仏像が献納され、これが現在秘仏となっている一光三尊阿弥陀如来像とされています。642年に現在の場所に安置され、安土桃山時代の争乱期には兵火を避けるために武田信玄織田信長豊臣秀吉徳川家康らによって所在を転々とした後、1598年に元の場所に戻りました。

 善光寺は特定の宗派に属しておらず、カトリックプロテスタントが合併したような寺です。その理由は意外に簡単で、まだ仏教の宗派ができる前に開山された寺だからです。日本仏教の多くの宗派は比叡山で修行した天台宗の僧侶たちが開祖となっています。この比叡山最澄が788年に開山したものですが、善光寺の開山に140年も遅れています。そのため、善光寺無宗派で、檀家制度がなく、身分や性別に関係なく、誰でもお参りできる庶民の寺として人々の信仰を広く集めてきたのです。

 無宗派とはいえ、善光寺を実際に管理しているのは天台宗と浄土宗で、天台宗のトップは「貫主(かんす、代々公家出身)」、浄土宗のトップは「上人(しょうにん、代々女性)」です。既にここに善光寺経営の巧みなマネージメントを垣間見ることができますが、さらに巧みなのが本尊の見事な演出と利用です。絶対秘仏の一光三尊阿弥陀如来像とそのお前立の組み合わせの演出、そして出開帳の巧みな活用によって多くの信者を集め、火事で焼失した本堂再建を成し遂げたのです。「開帳」とは帳(とばり)を開き、秘仏の仏像を一定に期間だけ広く人々に拝ませることで、「出開帳(他の場所に出向いての開帳」と「居開帳(本堂での開帳)」の二つがあります。

 善光寺は何度も焼失し、1666年に如来堂(本堂)の仮堂が建てられましたが、傷みが進み、1692年本格的な本堂再建計画が始まります。再建費用を賄うため、江戸・京都・大坂で「出開帳」を催し、どこでも大変な盛況でした。江戸時代には寺社が各地に出向き、秘仏や仏様を開帳する「出開帳」が盛んで、善光寺の両国回向院での最初の出開帳は、今より350年前の1692年に行われました。本堂の再建工事は門前町から類焼しないように本堂を北へ移すこととし、新敷地を造成したのですが、1700年に町家から類焼し、建築中の本堂も集積した用材も灰燼に帰したのです。善光寺が自力で進めてきた再建に幕府が助力して再建を行い、1701年から1706年まで、日本全国を回る「回国開帳」を行い、再建費用を集めました。工事は急ピッチで進み、1707年に落成しました。全国の庶民にまで善光寺信仰が浸透したのは、各地で人々が熱狂した回国開帳が契機となったのです。

 以後、善光寺参りの男女が増大し、東西南北から信濃へ入る道はすべて善光寺道となり、路傍には善光寺を指し示す道標が建てられました。全国各地に善光寺講が組織され、善光寺参りが盛んに行われることになりました。