関山権現社の「権現(ごんげん)」とは

 妙高市の関山神社は江戸時代まで「関山権現社」 と呼ばれ、三体の仏像を本尊としていました。「権現」とは、仏や菩薩が人々を救うために仮の姿(=神)になって現れることです。また、その現れた神のことも権現と呼びます。元の仏のことは本地仏(ほんじぶつ)と呼びます(本地は神の姿となって現れた垂迹身に対してその本来の仏や菩薩を指します)。このような神仏の同一化は平安時代に生まれた神仏習合を説く本地垂迹説によるもので、神と仏が結びつけられ、「・・・権現」と呼ばれるようになりました。
 本地垂迹説は、神の本地は仏で、人々を救済するために神を仮の姿としてこの世に現れる、という主張です。天照大神の本地は十一面観音(または大日如来)です。権現号は明治時代の神仏分離により使用が禁止されましたが、庶民の間では権現信仰は根強く残り、日吉神社の「山王権現」や春日大社の「春日権現」などのように、権現名で呼ばれる神も健在です。徳川家康を祀った東照宮も「東照大権現」として有名です。「権」という文字は「権大納言」などと同じく、「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が仮に神の形を取って現れたことを表しています。

 例えば、蔵王権現奈良時代役小角(えんのおづの)によって初めて祭られました。これが吉野の金峯山寺蔵王堂で、現在でも蔵王権現三体が祀られていて、それぞれ釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩とされています。八幡が阿弥陀如来であり、日吉が釈迦如来薬師如来であるなど諸神に本地仏が配され、仏教宗派と関わり合いながら、独特の信仰として全国に広まっていきました。

 さて、関山神社縁起によれば、妙高山和銅元年(708)に裸行上人が登山し、弥陀三尊の来迎に会い、頂上に阿弥陀三尊を祀り、翌二年に神託を受けて麓の関山に社殿が造営され、「関山三所権現」と呼ばれることになります。これらは伝承で、後世の創作ですが、裸行上人の開基が意味するのは、熊野那智山修験道の影響があったと考えられます。また、山頂に阿弥陀三尊を安置したのは、阿弥陀三尊が一光三尊仏であることから中古に信州善光寺信仰の影響があったと考えられます。
 関山三所大権現は、主尊が関山大権現(祭神国常立尊、本地聖観音)、左脇侍が白山大権現(伊弉冊尊、本地十一面観音)、右脇侍が新羅大明神(素戔嗚尊、本地文殊)ですが、古くから祀られていた本尊に脇尊が加えられて三所になったと思われます。主尊として殿内中央の厨子に安置されていた秘仏の銅造聖観音菩薩像(県指定文化財)は像高20.3センチの小像で、朝鮮三国時代新羅仏です。また、両脇侍の像はともに江戸時代の作です。