神仏の習合と分離:日本の伝統

 奈良の大仏を建立した聖武天皇神仏習合の政治を目指しました。聖武天皇は仏教に深く帰依しましたが、仏教だけを柱にしたのではなく、外来の仏教と日本古来の神道とを習合しようとしました。それは神が祀られる神社と、仏が祀られる寺とを分ける、(現在のような)神仏分離の宗教のあり方とは違うものでした。

 公式に神仏習合が始まったのは749年で、その舞台は奈良の東大寺でした。神官であり尼僧でもある大神杜女(おおがのもりめ、大神比義(おおがのひぎ)の子孫で宇佐八幡宮禰宜尼、八幡神を奉じて入京し、大仏造立事業への援助を託宣した)は、宇佐八幡神が自らに降りた状態で、東大寺を拝みに来たのです(つまり、八幡神自身が東大寺を拝む)。東大寺では八幡神を迎え、僧侶5000人による大法要が営まれました。これより先、宇佐の八幡神東大寺の建立を必ず成功させるとの神託を下しており、東大寺と大仏を建立する際の守護神として東大寺近くに手向山八幡宮が建立されました。そして、八幡神が完成を見た大仏を見に来たのです。神仏習合が始まると、神々は仏教を歓迎し、仏教を擁護する「護法善神」であると考えられるようになりました。

 ところで、総国分寺たる東大寺と各国国分寺が建立され、神道のトップである聖武天皇が「三宝の奴(仏教の弟子)」と称したことは、それまでの日本の宗教の形が大きく変化したことを意味しています。538年に日本に仏教が公式に伝来してから、聖武天皇までは神道が「主」で、仏教は「従」でした。ところが、聖武天皇は仏教を「主」に、神道を「従」にしたのです。習合の主従関係が逆転したのです。

 8世紀には地方の主要な神々が仏教に帰依して修行したいというお告げを出す現象が頻発しました。そこで、神社の境内には「神宮寺」と称する寺が建立され、僧侶たちが神前読経を行い、また、神が修行できるようにしたのです。「仏教に帰依して、国家鎮護の神とならん」との託宣をくだした八幡神は、奈良時代末には仏として「八幡大菩薩」の称号が贈られ、僧侶の姿の八幡神像が盛んに作られるようになります。

 このように、仏教が到来した当初は「仏教が主、神道が従」であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付けたりしました。仏や菩薩が仮に神の姿となったと考え、阿弥陀如来垂迹八幡神大日如来垂迹伊勢大神とする「本地垂迹説」が台頭しました。戸隠神社や関山神社もこのような神仏習合の中で考えることができます。伊勢神宮の神官にも仏教が浸透し、神官の中から出家する者が多く出ました。そのような伊勢神宮神仏習合が変わり出すのは幕府の政策でした。1669年の遷宮の際に寺院が勧進することを止めさせ、伊勢神宮の仏教色の排除を求めました。その最後のとどめが明治初年の神仏分離政策でした。江戸時代に国学が流行し始めると、神道優位が説かれ、神道から仏教的要素を取り除こうとするようになり、それが明治維新での「神仏判然令」に繋がり、神仏分離が実行されることになりました。

 その後は神仏分離が維持され、現在は広く信教の自由が認められています。