神仏習合:七福神

(これまでClub Myokoで七福神(1)と七福神(2)と分けて掲載したものを修正し、まとめたものです。)

 七福神めぐりは七つの災いを除き、七つの幸福を与える神々を元旦から七草までに巡り、幸福を祈る行事です。江戸時代の文化文政頃、谷中の七福神に始まるといわれ、特に明治末年から昭和の初めに都内の各所で盛んになりました。私が住む江東区では昭和45年に深川七福神めぐり、昭和53年に亀戸七福神めぐりが復活しました。深川七福神は、富岡八幡宮恵比須神神道、愛敬富財)、冬木弁天堂(弁財天、古義真言宗、芸道富有)、心行寺(福禄寿、浄土宗、人望福徳)、円珠院(大黒天、日蓮宗、有福蓄財)、龍光院毘沙門天、浄土宗、勇気授福)、深川稲荷神社(布袋尊神道、清廉度量)、深川神明宮(寿老神、神道、延命長寿)の七つです。この2年間、私は富岡八幡宮以外には行っておらず、コロナ禍とはいえ、何かすっきりしない気持ちです。

 さて、⺠衆の間で人気のある七福神室町時代に京都が発祥の地とされ、七福神の神々の⼒を借りて幸福を授かろうとする⺠衆の願いが表れています。七福神は「恵比寿神、⼤⿊天、毘沙⾨天、弁財天、福禄寿神、寿⽼神、布袋尊」の七神で、正にラッキーセブンです。彼らの中で恵比寿神だけが⽇本古来の神です。⼤⿊天、毘沙⾨天、弁財天はインドの神、福禄寿神、⽼寿神、布袋尊は中国の神。最初は⼤⿊と恵比寿が「⼆福神」として盛んに祀られました。室町時代に⼊ってから、禅と茶道の隆盛に伴い、⽵林の七賢⼈などの絵が⼈気をよび、七賢になぞらえて福神を七⼈にしようと、恵比寿、⼤⿊天に五⼈の神が加えられました。ここにはヒンドゥー教や中国仏教、そして日本の土着信仰などが複合され、神仏習合の仕方を示す典型例になっています。

 妙高市七福神めぐりがあるかと見回すと、残念ながら私の子供の頃の記憶には全くありません。そこで、探してみると、見つかるのは特定非営利活動法人七福神ばかりで、恐らく今もないのではないかと思っています。もし妙高市七福神めぐりが実在するなら、是非教えてほしいものです。新潟県にはそもそも七福神が少なく、佐渡七福神、七名(ななめ)地区七福神糸魚川八福神などしかありません。

 再度、日本宗教の特徴である「神仏習合」を七福神について考えてみましょう。その歴史が古いことは既に何度も述べました。寺院の境内に守護神としてのお宮が造られ、神社の境内に守護寺としてお寺が建立され、神と仏の共存の形ができ、家庭内では神棚と仏壇とが共存していました。ところが、明治政府は仏教と神道を切り離して、国家神道をつくりあげます。政府は神道を公事に使い、仏教は私事に使うという使い分けをしたのです。

 仏教の中でも天台、真言密教と土着の古代神道は似た信仰形態を持っています。例えば、どちらも「山」を大事な精神の拠り所とし、山の名前には神や仏がよく登場します。私たちの祖先は山を神と崇め、神を里へ降ろして様々に祀ってきました(これは既に関山神社で述べました)。このような原始信仰が修験道となり、神仏習合が成り立っていました。神仏習合の考え方から生まれたもう一つの例が「七福神」です。

 七福神は江戸の町で生まれた混淆的、習合的な民間信仰です。江戸の人々は神、仏の本来の姿を離れ、自分たちに役立つ仕方で、自由に神や仏を改造するのですが、その傑作となるのが七福神です。では、なぜ江戸の町で七福神信仰が流行したのでしょうか。江戸時代、全国には多くの藩が共存し、それぞれが一つの国でした。江戸時代はそれぞれの藩によって言葉、文化、そして生活が違っています。その多様な国々から様々な人々が江戸に集まり、江戸は多様なものが混淆した都市になりました。そのため、江戸独自の言葉、信仰、文化が求められたのではないでしょうか。「お稲荷さん」が手軽に祀れ、それによって「稲荷信仰」が流行りますが、それと同じように、七福神はその無国性、混淆性から江戸の人々の誰からも否定されることなく、誰もが同じように拝むことができ、江戸の人々に抵抗なく受け入れられたのです。

 元禄から文化・文政にかけて、江戸では七福神信仰が盛んになります。ところが、恵比寿を除く七福神はどれも外来の存在。例外の恵比寿さえも日本古来の神ではないという説さえあります。昔話の鬼は悪者として登場するのですが、最後は降参し、悔い改めて、神仏を護る従者になります。人々に災いをもたらす存在が、どこかで転換して人々を守るように変化していくのが日本の特徴で、恵比寿もそのようにして神になりました。恵比寿は『古事記』に登場する事代主命(ことしろぬしのみこと、大国主命の子)と習合し、そこに人々が物語を付け加え、恵比寿は福の神に変身したのです。

 大黒天は真言宗では胎蔵曼荼羅真言密教の根本経典の一つである『大日経(だいにちきょう)』をもとに描かれた図)の一番外側に描かれている神です。仏教に帰依した外来の神たちは如来,菩薩,明王に次ぐ存在として曼荼羅に描かれています。曼荼羅の中には大黒天の他、毘沙門天多聞天)、弁財天などが描かれていますが、曼荼羅の中の大黒天は色黒で小太り、忿怒の形相をしています。それが日本にくると、福の神の「大黒さん」に変わるのです。そして、福の神になる時に、恵比寿と同じように、大黒天は『古事記』の中の大国主命と習合します。恵比寿と大黒がめでたい神だと人々が看做すようになるのは、江戸の七福神の信仰が広まってからのことです。

 毘沙門天弁才天も同じように神格を変えていきます。福禄寿、寿老人、布袋和尚は中国で禅画によく描かれた馴染みの人物ですが、江戸の文人たちは彼らも加えて、ユーモアを交えて七福神を取り上げ、巧みに描き分けました。江戸では七福神の徳を伝えるキャッチコピーが数多く作り出され、人々の人気を勝ち得ていきました。

 江戸が生み出した七福神神仏習合の代表例であるだけでなく、江戸庶民の神様たちです。それゆえ、七福神は地域的、局所的な神であり、江戸以外の地域にはない神様たちでした。でも、日本中に「銀座」ができたように、七福神も日本各地にできていきます。それは銀座と同じように、江戸での流行に倣った結果です。それゆえ、妙高七福神がない理由は、本来七福神は江戸で生まれた神々であり、その流行が妙高にまでは及ばなかったから、ということになりそうです。