神棚と仏壇

 私が5、6歳の頃に住んでいたのは建ってから既に100年近く経った家で、台所や茶の間は梁が直接見え、囲炉裏があったため台所の天井は黒く煤けていました。茶の間には柱時計より高い位置に神棚があり、座敷には仏壇が置かれていました。子供にもわかる神仏習合の例が神棚と仏壇の両方が家にあることですが、祖母は両方への供え物をいつも用意していました。踏み台を使わないと届かない高い場所にあるのが神棚で、子供の私は踏み台に乗っても手が届きませんでした。それに比べると、仏壇は簡単に見たり触ったりでき、仏壇の中に何があるかおよそわかっていました。ですから、私は神棚より仏壇の方にずっと慣れ親しんでいて、単純で退屈な神棚に比べると、仏壇の中の仏具は装身具のように見え、真鍮の仏具を磨くことを好んで手伝っていたのを憶えています。

 そこで、神道と仏教の習合の歴史を簡単に振り返り、次に神棚と仏壇の歴史を見てみましょう。奈良時代に記された『古事記』や『日本書紀』によれば、天上の世界である高天原(たかまがはら)を統治する天照大神天皇家の始祖です。その天照大神が地上を統治する役目を任せたのが、孫の瓊瓊杵尊(瓊々杵命、ににぎのみこと)で、彼は三種の神器を携え、地上を統治するため、神々と共に地上に降り立ち(天孫降臨)、この瓊瓊杵尊の曾孫が神武天皇で、初代天皇です。

 神道天皇の関係に大きな変化が起こるのが飛鳥時代の仏教伝来です。仏教の受容をめぐり、仏教擁護の蘇我馬子が権勢を握ります。用明天皇の皇子聖徳太子も仏教を信仰し、天皇家にとって仏教は鎮護国家の重要な装置になっていきます。そして、日本古来の神は仏教に帰依したと解釈し、神仏を一体化させる流れが生まれ、「神仏混淆」、「神仏習合」が進められました。天皇が譲位後に出家し、法皇を名乗ることも神仏習合の一つです。

 仏教に対して従の神道が再び脚光を浴びるのは江戸時代。仏教や儒教などの外来思想に影響を受ける前の日本の文化や思想を追究する「国学」が盛んになり、本居宣長は『古事記伝』で『古事記』を再評価し、天皇家神道が改めて注目されます。彼は徳川幕府の支配体制も天照大神の命に発し、朝廷を経て徳川家康に委任されたと考え、これが幕末の尊王思想につながっていきます。尊王思想は徳川幕府ではなく天皇家こそが日本を統べる存在であるという考え方に繋がり、天皇が日本の統治者に復帰し、明治政府が始まりました。

 さて、神棚の最古の記述は『古事記』にありますが、一般家庭への普及は江戸時代です。伊勢神宮や富士参りが観光として広まる中で、「御師」と呼ばれる旅行案内人が全国にお札を配り、伊勢神宮への信仰を勧めました。このお札を祀るために神棚が作られました。神棚には次の三つのお札を祀ります。それらは(1)神宮大麻(いわゆる「お伊勢さん」のお札)、(2)自身が住む地域の氏神様、(3)自身が参拝した神社のお札、です。神棚が一社造の場合、神様のお札を納める扉は一つです。三社造の場合は神様のお札を納める扉は三つで、我が家の神棚はこのスタイルでした。三社造の場合は、中央に「神宮大麻」、向かって右に氏神様、向かって左に自身が参拝した神社のお札の順に納めます。棚の正面には神鏡、左右に榊を立てた榊立て、灯明を配し、神棚の前方に注連縄をかけます。神饌(お供え)は、米、酒、塩、水が基本です。

 最古の仏壇といわれるのは「玉虫厨子(たまむしのずし)」です。1300年以上前に天武天皇が、「家ごとに仏像をご安置して礼拝するよう」勅令を出したのをきっかけに、仏壇が広まるのですが、この頃はまだ位の高い貴族階級のみの文化で、庶民の間に広がるのはもっと後のことです。鎌倉時代に入ると、法然親鸞日蓮などに代表される鎌倉仏教の影響もあり、庶民の間にも仏教の信仰が広まっていきます。中国の儒教の祭具である「位牌」が持ち込まれたのもこの頃です。室町時代に入ると、浄土真宗門徒を中心に、庶民の間にも仏壇の文化が普及します。浄土真宗蓮如は、庶民にも分かりやすい言葉で積極的に布教活動を行い、人々は床の間に仏画を飾り、仏壇を置いて仏様を祀るようになります。

 浄土真宗以外の宗派に仏壇が広まっていくのは、江戸時代に入ってからです。その背景には、1635年に徳川幕府が実施した「寺請制度(てらうけせいど)」があります。これはすべての庶民に寺の檀家になることを命じたものです。それと同時に、檀家は仏壇を置くことが義務付けられたため、日本全土に仏壇が普及しました。浄土真宗では金箔で華やかな金仏壇が作られるようになりました。

 さて、神棚が上の方にあり仏壇が下の方にある理由は神と仏のあり方にあります。神は人間よりも位が高い存在で、人間の頭よりも上に神を祀ることになります。そのため、神棚は天井近くの高い位置に置かれました。ところが、仏教は座って拝むことが基本であり、仏壇は仏を祀るための壇で、座った目線で拝むことになります。そのため、私のように背の低い子供には仏壇の方がよく観察でき、好奇心を向けることができたのです。

 浄土真宗では、宗派の公式見解として神棚をお祀りすることは認めていない筈なのですが、門徒だらけの小出雲(私のふるさと)ではどの家にも神棚があり、神仏習合が見事に成り立っていました。それは子供の私のぼんやりした記憶の中でも妙にはっきりしている神仏習合の一例です。とはいえ、さすがに浄土真宗の寺に神棚はありませんでした。

*江戸時代の神職は一般の人たちと同様、一定の檀那寺を持たなければならず、寺院内に墓が設けられ、戒名すら贈られる人もいたようです。