秘仏と御開帳(3):浅草寺と善光寺

 東京で最も古い寺が浅草寺で、その秘仏聖観音菩薩は隅田川で漁をしていた兄弟が見つけました。兄弟の主人土師真中知(はじのまなかち)はその像を見て、出家し、628年に自宅を寺として聖観音像を祀り、それが浅草寺の始まりになりました(『浅草寺縁起』)。後に、像を発見した檜前浜成、竹成兄弟と土師真中知の三人を祀ったのが「三社権現社」で、これが現在の浅草神社です。本堂の横にある浅草神社浅草寺にすっかり溶け込み、三社祭浅草寺の祭りになっていて、神仏習合の具体的な姿を見ることができます。

 645年に浅草の地を訪れた勝海上人が聖観音菩薩像を見て、「現世においても後世においても目のあたり排することなきよう」と言葉を残し、それ以降秘仏と定められました。857年には円仁(慈覚大師)が訪れ、本物そっくりの聖観音菩薩(御前本尊)を作り、年に1度12月13日に開帳される秘仏はこの御前本尊となりました。勝海上人は浅草寺の「開基」、慈覚大師は「中興開山」です。浅草寺聖観音菩薩は善光寺の一光三尊阿弥陀如来と同じように、絶対秘仏となっています。

 6月29日(日)までの善光寺前立本尊御開帳は今日から始まります。善光寺の創建は聖徳太子が没して20年後ほどの飛鳥時代の642年頃とされています。神道を信仰していた日本に朝鮮から仏教と仏像が入ってきます。百済高句麗から攻撃を受けていて不利な状況で、そのため、百済倭国ヤマト王権に援軍を求め、仏像や経典を日本に送ってきました。この仏教伝来の過程で、善光寺の本尊も日本に渡ってきました。伝承によると、600年物部氏によって捨てられた仏像を本田善光(ほんだよしみつ)が難波・堀江の阿弥陀池(あみだいけ)で拾います。彼は天皇の許可を得て、信濃・飯田の伊那郡麻績の自宅に持ち帰りました。642年水内郡芋井郷(長野市)に移り、644年に皇極天皇による勅願で伽藍が整備されると、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。

 武田信玄善光寺の本尊を甲府に持ち帰り、1558年甲斐・善光寺を建立して祀っています。その後、1582年武田家が滅亡し、本尊は織田信雄によって、尾張・清州城下の甚目寺に移されました。その後、徳川家康の手に渡り、最後に長野の善光寺に戻されます。1596年の慶長伏見地震で、東山・方広寺の大仏が倒壊すると、1597年豊臣秀吉は大仏の代わりに善光寺如来を京の大仏殿に安置させました。翌年、豊臣秀吉が病となり、それが善光寺如来の祟りとされ、長野の善光寺に戻されましたが、その翌日に豊臣秀吉は亡くなりました。

 善光寺の正式な名称は「定額山善光寺」で無宗派です。実際は天台宗と浄土宗による共同運営で、境内に両宗『大勧進』と『大本願』の寺院があります。ここにも宗派の習合が見られます。本尊の善光寺如来は日本最古とされる一光三尊形式の阿弥陀如来善光寺阿弥陀三尊」で、絶対秘仏です。そのため、長野・善光寺の本尊は一度も学術調査されたことがなく、文化財指定も受けていません。一光三尊阿弥陀如来はインドから百済を経由して、日本に渡来した日本最古の仏像と言われています。

 どちらの寺の本尊も誰も見たことのない絶対秘仏ですが、「見ることのできない仏像」とは何とも解せない存在です。