親鸞と謙信の対照的な謎

 これまで時代の異なる親鸞と謙信が交錯する様を見てきました。二人にとってそれらは些細な事柄に過ぎないのでしょうが、二人と女性の関係については核心に関わる事柄で、これまでと随分と違う形で謎そのものなのです。親鸞の妻と子供は何人いたのか、謙信はなぜ独身だったのか、という問いは好対照の問いで、二人の人生の違いを反映している筈なのですが、どちらも答えははっきりしません。それでも、親鸞の妻だった恵信尼の書簡がみつかりました。恵信尼が晩年を過ごしたのが上越市板倉区で、現在は「ゑしんの里記念館」があります。

 1207年の「承元の法難(ほうなん)」で法然とその弟子たちは京都から追放されました。親鸞も越後へ流されます。親鸞直江津の居多ケ浜(こたがはま)に上陸し、五智国分寺本堂脇の竹之内草庵に住みました。約1年後に移り住んだのが現在の国府別院の地である竹ガ前(たけがはな)草庵です。1214年、関東での布教活動のため、信濃善光寺を経て常陸(今の茨城県)に入った親鸞は、以後20年間を精力的に布教に努め、主著となる『教行信証』を書き始めます。60歳を過ぎた頃、妻子と共に京都に帰り、『教行信証』を完成させ、1262年親鸞は90歳の生涯を閉じます。

 ところで、親鸞と結婚し、越後から常陸、京都へと同行したと言われる恵信尼ですが、1921(大正10)年に真実が明らかになります。恵信尼親鸞が亡くなる数年前に末娘の覚信尼親鸞の世話を任せ、郷里の越後板倉(上越市板倉区)に帰っていて、その頃京都にいる覚信尼に宛てた文書『恵信尼消息』10通が西本願寺の宝物庫から発見されたのです。

 恵信尼(1182年-1268年?)の生れは越後で、父は越後国の豪族三善為教。親鸞の越後や関東での布教に同行します。越後に流罪となった1207(承元元)年以後に結婚したとする説と、それ以前に結婚していたとの説、越後での再婚説などがあります。また、親鸞が帰京する際、同行せずに、越後に帰郷したとする説と、京都に同行して約20年ともに暮らし、1256(康元元)年に親鸞の世話を末娘の覚信尼に任せ、越後に帰っていたとする説と、稲田の草庵に残り、そこで没したとする説(西念寺寺伝)があります。

 『恵信尼消息』は1921(大正10)年に西本願寺の宝物庫から発見された10通からなる恵信尼の真筆消息(手紙)。越後の恵信尼が京都の娘覚信尼に送ったもので、現在も西本願寺に現存します。それらの消息によれば、親鸞には善鸞、信蓮房、益方(道性)、小黒女房、覚信尼の5人の子供がいたことがわかります。

 さらに、覚如上人の「口伝鈔」(くでんしょう、1331年)で、六人の子供がいたとあります。九条稙通(たねみち)の作「本願寺系図」(1536年)、および実悟(じつご)の作「日野一流系図」(1541年)では男子が4人、女子3人で計7名の子供がいたということで一致しています。でも、本願寺系図では7人の子供の母親はすべて「月輪殿御女」(関白九条兼実の娘玉日)とされていますが、日野系図では善鸞以下の6名が恵信尼の子であるとしています。

 いずれにしろ、これらの記録から親鸞は少なくても二人の女性と結婚し、5名から7名の子供がいたことがわかります。妻帯に関して親鸞と正反対なのが謙信です。謙信には子供が一人もいません。そこで登場するのが上杉謙信女性説で、1968(昭和43)年に小説家八切止夫が唱えた謙信は女性であったかも知れないという仮説です。謙信の遺体は甲胄を着せたまま漆で固めた遺骸が残されていると言われていて上杉家廟所に安置されていて、上杉家の意向で現在まで学術調査はされていません。

 女性説の根拠は幾つかあります。例えば、国王フェリペ2世への調査報告書の中に「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている」と記載されていて、この「叔母」は謙信のことでないかと言うのです(スペイン語のtioは叔父で、女性形が使われているのが理由)。

 謙信は生涯不犯(しょうがいふぼん)の誓いを立てたと言われていますが、現在その誓いが本当に守られたのかどうかを知る術はありません。様々な疑問が残りますが、謙信は生涯女性と関わりを持たず、それ故に謙信死後に、御舘(おたて)の乱が起きたと考えることができます。御舘の乱では長尾政景の息子景勝と北条氏康の子景虎が戦うことになりました。

*御館は謙信が関東管領上杉憲政を越後に迎えた時の居館として春日山城下に建設された館

**『謙信襲来 越中能登・加賀の戦国』(萩原大輔、能登印刷出版部、2020)は越後を本拠とする謙信に侵攻された北陸側の視点から謙信の実像を描いています。越中能登、加賀の3カ国について、謙信が焼き打ちを行った伝承が残る寺社は147あることから、義の人謙信が本当に神仏を敬っていたなら、これほど寺社を焼くはずがないと述べています。謙信にとって、一向一揆との戦いは実に政治的で、「義」もスローガンに過ぎなかった可能性が高いということになります。