ふるさとの「義の人」

 ふるさとの英雄上杉謙信が「義の人」、「義の武将」、「義の心をもつ武人」などと言われるとき、私たちは「義」をどのように理解しているのでしょうか。江戸時代の庶民なら「義理人情に厚い人」を思い起こし、武士なら儒学朱子学の「義」を思い描いたのではないでしょうか。また、明治の日本人なら、漱石の「人生の第一義は道義に基づく生活」をイメージした筈です。でも、その「道義」は何を意味するかとなると、後年漱石が「道義上の個人主義」で用いる「道義」と同じ筈なのですが、道義の明解な説明はなされないままになってしまいました。

 では、現代の私たちはどうでしょうか。そこで、再度ヨーロッパ思想に助けを求めてみましょう。「義の人」と好対照なのが「善(Good)の人」です。善の人は良い人、善行の人を意味しています。善はギリシャ時代以来人生の目的であるとされてきました。そして、その後善を実現することが幸福であるという功利主義が近代ヨーロッパで定着しました。一方、義を正義(Justice)と解するなら、正義は明らかに善とは異なっています。誰も幸福と正義は随分と違うと思う筈です。

 そこで、越後に眼を転じるなら、謙信が義の人であり、親鸞が善の人である、と思いつく人が必ずやいる筈です。親鸞もふるさとの偉人だからです。実際、「武の人」と「信の人」と置き換えたくなるのが越後の人々の二人の評価です。それで正義と善の違いに合点がいく訳ではありませんが、違いの一端を感じ取ることはできそうです。戦を通じて正義の実現を目指すのが謙信であり、念仏を唱えることで成仏するのが善であると説くのが親鸞です。

 大胆に単純化すれば、正しいことを基準に生活を考えるか、幸福を基準に生活を考えるかで、謙信と親鸞はそれぞれの基準に従って、武将と僧侶のあるべき生き方を示したのです。ヨーロッパの倫理の主流は善と幸福にあり、その対抗馬が正義でした。でも、20世紀に改めていずれが基本的なのか問い直したのがロールズの『正義論』だったのです。善と正義のいずれが人生と社会にとってより基本的なのか、二つの間にはどのような関係があるのか、依然として難問として私たちを悩まし続けています。

 「義の人」とは「正義を実現する人」、「善の人」とは「幸福を実現する人」と置き換えるなら、確かに謙信は義の人でしたが、領民たちの幸福を第一に考えたかと言われると躊躇する人が多く、正義が実現すれば、その結果として善が実現すると謙信は考えたのではないでしょうか。

 親鸞も謙信もヨーロッパの倫理や道徳の思想によって判断などするべきではないのですが、ふるさとの偉人二人を考える上では一定の役割を演じるのではないでしょうか。