親鸞と謙信についての謎

 既に終わってしまったのですが、今年の3月25日から5月21日まで京都国立博物館で「親鸞聖人生誕850年特別展 生涯と名宝」が開催され、『教行心証』を含め、多くの遺品が陳列され、レクチャ―も行われました。

 さて、これまで言及しなかったのが親鸞の配所です。親鸞の配所は直江津でも、直江津のどこかは判然とせず、17世紀後半からの祖蹟巡拝の流行で、竹ノ内、竹ガ前が取り上げられます。しかし、20世紀に入ると、実証史学はそれらすべてを否定するのです。ところが、1921年恵信尼文書が発見され、配所が直江津であることが証明され、郷土史家たちによって、まずは竹ノ内草庵、次に竹ガ前草庵で恵信と暮らしたということになりました。とはいえ、正確な場所が実証的に特定できた訳ではありません。

 親鸞は1214(建保2)年に常陸国稲田(現笠間市)の稲田九郎頼重の招きに応じて草庵を結び、現在その跡地には西念寺浄土真宗の単立別格本山(どの組織にも属さず、本山に準じた待遇を受ける格式の寺)で、1304年開基)があります。上越の浄興寺は昭和27年に大谷派から独立し、現在は真宗十派とは別の真宗浄興寺派と呼ばれています。浄興寺は稲田草庵の直接の伝統を引いていると寺伝は伝えていて、1263(弘長3)年、小田泰知の乱により伽藍を焼失。常陸板敷山(現在の茨城県石岡市大覚寺に移り、その2年後、火災により再び焼失し、常陸磯辺村(現在の茨城県常陸太田市)に移りました。さらに、2年後(1267年)には信濃長沼(現在の長野市)に移っています。1263年に浄興寺が稲田から移転した後、1304年に跡地に西念寺ができた訳ですが、西念寺と浄興寺の関係はよくわからず、謎のままです。

 さて、『教行信証』の正式名は『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)で、全6巻からなる浄土真宗の基本となる聖典本願寺派では「御本典」、大谷派では「御本書」と呼ばれます。1224(元仁元)年4月15日に草稿本が完成したとされ、真宗大谷派が所蔵するテキストが現存する唯一の原本で、関東在住時代に草稿が完成し、最晩年まで推敲したものと考えられ、朱筆や墨で加筆した跡が随所に見られます。現在は国宝で、真宗大谷派から京都国立博物館へ寄託されていて、それが上記の春の展覧会に出品されていたのです。

 『教行信証』が完成すると、歓喜して踊躍した親鸞は草庵を「歓喜踊躍山浄土真宗興行寺」と名付けたとあります(『高田市史』)。 1232(貞永1)年8月、草庵を去る際に親鸞は善性を後継とすると共に「掟二十一ケ条」を授けました(『高田市史』)。1235(嘉禎1)年将軍藤原頼経が浄興寺に対し、信濃国長沼(長野市長沼)に3000貫を寄進しました(『高田市史』)。1263(弘長3)年、善性は遺言で親鸞の頂骨を持ち帰って納めました。以後、善性の子孫がそれを世襲することになります。下総国猿島郡磯部郷(茨城県古河市磯部)に移転後、1267(文永4)年、寺領のあった長沼に移転します(長沼浄興寺)。『真宗年表』にある善性の没年は1268(文永5)年。

 二十四輩(関東時代の親鸞の高弟)の一人善性は後鳥羽上皇法然親鸞流罪にした張本人)の第三王子宮正懐親王で、出家し比叡山で名を周観と改めました。この経歴は親驚聖人とよく似ています。さらに、1218(建保6)年20歳の時に諸国行脚を決意しました。下総で親鸞聖人が流罪赦免により、越後から来たことを聞き、小島(下妻市小島)の地に聖人を迎え、弟子となります。その後、親鸞聖人が稲田に庵を結んだ際、善性房と法名を授けられました。親鸞が京都に帰洛する際、善性に稲田草庵を譲った、と言うのが浄興寺の寺伝。ところが、親鸞没の翌年、浄興寺は兵火によって焼失したため、善性の子孫たちは、寺とともに稲田から信濃の国の長沼に寺を移しました(1267年)。その後、戦乱の混乱の中、何回か場所を変遷し、江戸時代初期に現在の上越市に再建されたと言われています。

 前述のように、「稲田の草庵」を引き継いだのは浄興寺ではなく、同じ場所に建つ西念寺だとも言われています。そもそも親鸞常陸に来たのは、下野(しもつけ)・稲田一帯を支配していた宇都宮頼綱(法然門弟)が招いたからであり、親鸞一家が稲田に落ち着くと、頼綱の弟の稲田九郎頼重(よりしげ)が面倒をみたと伝えられています。ですから、親鸞が京に戻った後は、頼重が草庵を念仏道場として受け伝えた。つまり、西念寺の開基は頼重で、この草庵はその後、第4世宗慶が1304(嘉元2)年に後二条天皇に奉達し寺院となり、宇都宮泰綱の遺命によって、「西念寺」と寺号を定めたと言われています。

 浄興寺、西念寺とも多くの親鸞直筆の史料があり、浄興寺、西念寺どちらが稲田草庵の継承寺なのか分からなくなります。浄興寺には、親鸞直筆の「浄興寺」という寺号の額や九字名号、六字名号や親鸞さんの頂骨まであります。一方、西念寺にも頂骨があり、どちらが稲田草庵の正当な継承者なのか、結局よく分かりません。

 浄興寺を継いだ善性ですが、彼が開基とされる寺の一つが勝願寺(しょうがんじ)。この寺は現在の茨城県古河市磯部にあります。寺伝によると、善性は北信濃の豪族井上一族の出で、系図では善性は1239年に57歳で逝去、親鸞が帰洛の5年後に亡くなっています。すると、浄興寺伝で頂骨を持ち帰ったという話とは辻褄が合わなくなります。ただ、北信濃の出身ということでは、浄興寺が焼失して、1267年に信濃の長沼の寺領地に寺を移したという寺伝には合い、善性は井上一族出身とする研究者は多いようです。

 ここまでの話は親鸞の稲田の草庵のその後の経緯についてですが、親鸞直江津配所に続いて、やはり謎だらけです。

 1561(永禄4)年、浄興寺は川中島の戦いで焼失。13世住職周円は焼死し、寺は小市村(長野市安茂里)に避難します。領主となった上杉謙信の庇護により信濃別府(長野県須坂市)で再建。1567(永禄10)年に上杉謙信の招きにより越後春日山上越市)に移ります(同地への招聘は上杉景勝によるものとする説もあります)。

 では、謙信はどうして浄興寺を春日山に招いたのでしょうか。これが3番目の謎です。というのも、第5次の川中島合戦(1564)の後、謙信は信玄の支援を受けた越中の武将や一向一揆と戦っていたからです。一向一揆と謙信の関係は極めて政治的です。浄興寺の場合も政治的な背景があったのでしょうか。1570年12月、上杉輝虎法号不識庵謙信」を称し、それ以降、上杉謙信となります。1571(元亀2)年2月、謙信は2万8000人の兵を率いて再び越中国へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃しました。康胤は激しく抗戦を続けましたが、上杉軍は城を落城させます。でも、康胤は越中一向一揆と手を組み、謙信への抵抗を続け、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めました(越中大乱)。

 上杉謙信は祖父の長尾能景の代より越中一向一揆と戦い、能景はその戦いで戦死しています。また、家康は家臣の多くが一揆方に加わるという苦渋を味わい、信長の晩年は一向一揆との抗争に費やされました。一向一揆の「一向」は「ひたすら」を意味し、一つに専念することです。謙信の一向一揆との戦いの筋目は何だったのでしょうか。