頸城地方の浄土真宗

 石山本願寺浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)がつくった一大拠点で、織田信長はそれを10年以上攻めるのですが、決着がつきませんでした。そこで、信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)を間に入れて和睦を求めます。本願寺内では信長と和睦するかどうかで意見が分かれます。当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)で、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張し、対立しました。最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡し、准如と共に和歌山の鷺森別院(さぎのもりべついん)に移転したのです。

 これで信長と浄土真宗の争いはひとまず収まったのですが、火種はまだ残っていました。信長はその火種を完全に消そうと明智光秀本願寺の攻撃を命じますが、光秀は「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と言って、信長を討ってしまいます。これが本能寺の変で、その結果、浄土真宗は滅亡の危機から逃れることができたのです。

 しかし、顕如教如の間の溝は埋まらず、顕如浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲ります。でも、教如はこれに納得できませんでした。新しい支配者家康にとっても浄土真宗は邪魔な存在でした。家康はこの勢力を弱めようと、教如に寺地を寄進し、東本願寺を別に建てさせました。この結果、本願寺は東と西に完全に分かれたのです。

 江戸時代の後半になってくると、東と西の対立は徐々に弱まります。当時、浄土真宗は「一向宗」と呼ばれていましたが、共に「浄土真宗」と名乗るように幕府に要求したり、親鸞空海などと同じように「大師」と尊称できるように求めたりしました。でも、一向宗浄土真宗となり、親鸞が「見真大師」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからです。現在の寺院数は浄土真宗本願寺派(西)10,275、真宗大谷派(東)8,607、檀家数は本願寺派 6,940,967人、大谷派5,333,146人です。

 本願寺派大谷派の違いは正直なところ私にはよくわかりません。我が家の正面には本願寺派の寺があり、その檀家だったのですが、祖父の妹が嫁いだのが糸魚川の寺で、そこは大谷派でした。小学生の私は何度かその寺を訪れ、夏にはそこで過ごすこともあったのですが、本堂内の読経も装飾もよく似ていて、区別できませんでした。とはいえ、大人たちは「お東」、「お西」といって区別していました。

 頚城地方、特に西頸城と中頸城は浄土真宗の寺が多く、妙高市では70ある寺院のうち67が浄土真宗の寺院で、ほぼ独占状態です。さらに、浄土真宗の中では大谷派が45、本願寺派が21で、大谷派が2倍強なのです。この特徴は上越市糸魚川市ももっています。上越地方の浄土真宗寺院は本願寺派が134、大谷派が408となっています。では、この理由は何なのでしょうか。

 もともと頸城地方は上記の石山合戦の際、先陣を切って戦を指揮した教如と強く関係を持った土地でした。例えば、本誓寺と教如は深く結ばれていました。そして、本誓寺の末寺群(当時119寺)も、本誓寺を通して教如と関係をもっていました。さらに、浄興寺の影響も忘れてはなりません。浄興寺と教如の関係は、浄興寺が越後に移ってくる前まで遡ることができます。教如から石山本願寺再籠の際に浄興寺に宛てた檄文や、石山本願寺退出の報告が浄興寺にとどけられています。つまり、頸城の真宗教団は最初から本願寺の継承者は教如だと考えていたのです。

 頸城地方は親鸞流罪の地として昔から浄土真宗独占の地に見えますが、長尾為景上杉謙信の実父)の禁制もあり、領内から浄土真宗が追放されました。為景の実父である長尾能景が越中一向一揆門徒に殺されたためでした。謙信の時代になるとその禁制も弱まりますが、独占状態になるのは江戸時代に入ってからのことです。頚城地方は古来より妙高山修験道や、真言密教が盛んな土地でした。そこに浄土真宗が江戸期に外来種のように入ってきたのです。これには浄土真宗を優遇した藩主堀氏の影響がありました。